【シリーズ関東大震災100年③】関東大震災100年 神奈川・根府川の山津波 集落が乗客が失われた(2023年5月18日放送)
関東大震災からことし100年となる特集シリーズ3回目です。大震災では犠牲者10万5000人の9割が火災で亡くなりましたが、揺れによる死者も明治以降最悪の1万3000人に上りました。中でも神奈川県を中心に発生した土砂災害は集落全体を飲み込むなど、多くの犠牲者を出しました。
「山津波」とも呼ばれた、鹿児島でも決して他人ごとではないこの土砂災害に迫ります。
関東大震災で壊滅した横浜市です。激しい揺れで建物が倒壊し、その後、火災に襲われました。震源地は西の神奈川県側。そこから東の千葉県側に崩れ、震源に近い神奈川では各地で震度7に達したとみられています。
建物倒壊など地震の揺れでも明治以降最悪の1万3000人が亡くなったとされる関東大震災。なかでも土砂災害は多くの命をひとまとめに奪いました。
神奈川県・小田原市。土砂災害で壊滅した悲劇の場所があります。根府川地区です。あの日、土砂崩れで鉄道の駅が列車と共に押し流されるとともに、山津波と呼ばれる大規模な土砂災害で集落が壊滅しました。
震災翌年に再建された根府川駅です。東海道本線が開通前の当時は熱海線の駅でした。
「この上、奥の鉄塔、あれからどーっと(土砂が)流れた」
住民の内田昭光さん(81)です。25年前に亡くなった父親が子どもの時に体験した震災の記憶を、次の世代に伝えようと活動を続けています。
駅の標高は60メートル。土砂崩れに見舞われた列車は、駅舎などと共にひとたまりもなく転落しました。
(内田昭光さん)「どーんと下に落ちた。乗っていたのは100人ぐらい。ホームにこれから乗ろうとしていた人もいた。その人たちも一緒に海まで行ってしまった。そうしたら津波ですよ」
土砂崩れと津波による列車の死者は100数十人に上ったとみられています。しかし、根府川は続いて起きた余震でさらなる悲劇に見舞われました。
山の斜面が崩落し、4キロ下流の集落を襲った「山津波」です。白糸川が流れ、上を鉄道橋が走る根府川地区の中心地です。当時の鉄道橋は地震でひとたまりもなく崩落しました。
内田さんの父親・一正さんは当時10歳で、この集落に住んでいました。
(内田昭光さん)「このあたりに自宅があった。父はちょうど10歳で、始業式が終わって(集落に戻り)、どんとそこで(揺れが)来た」
時速50キロもの速さで流れ下った山津波。住民は「山が来た」と叫びながら逃げたといいます。
(内田昭光さん)「寒ノ目山という山、そこからバーっと(山津波が)きたので、『寒ノ目がきた、寒ノ目が来た』と地域の人は怒鳴って、『逃げろ、逃げろ』というような感じだった」
被災後の集落です。91軒のうち72軒が最大60メートルもの高さに達した土砂で埋まり、およそ300人が亡くなりました。列車の転落なども合わせると、地域全体の犠牲者は500人にも上りました。
(井村隆介准教授)「新幹線の橋脚が半分ぐらい埋まる高さで、ずっとつながるような土砂の感じだったと思う」
今回、現地には鹿児島大学で地震地質学が専門の井村隆介准教授が同行しました。
(井村准教授)「もともと山から出てきた土砂が平たんにしていった地形を扇状地と言う。まさにそういう地形をしている。この根府川の実例は、やはりいつ起こるかわからない地震によっても土砂災害が起こりうるということを教えてくれている」
7年前の熊本地震や5年前の北海道地震でも起きた土砂災害は、鹿児島でも発生しています。
井村准教授とともに訪れた鹿児島市田上台。109年前の桜島大正噴火の際、M7.1の地震で土砂崩れが発生し、20人余りが亡くなった場所です。
(井村准教授)「いまはもう街になったようなところでも、大正噴火のときの地震で崖が崩れて、20人以上が生き埋めになっている。都市化されて分からなくなっているだけで、過去にそういう大きな地震による土砂災害が起こっているところが、実は至る所にある」
さらに26年前の県北西部地震で、死者はなかったものの、各地が崩れたさつま町では…
(井村准教授)「痕跡がこの家の裏、崖になっている。崩れたあとを、年度内に復旧と書いてあることから、崩れたものを直したということがよくわかる。
この(県北西部地震の)ときには建物には大きな被害がなかったが、余震・雨でさらに崩れると被害が出る可能性があったので、治山という形できちっと復旧した」
鹿児島でもけっして他人ごとではない地震による土砂災害。それは建物の耐震化が高まった今でも大きな課題を突きつけていると井村准教授は指摘します。
(井村准教授)「どうすればいいのかというものはない。そのときに最善だと思う方法をとるしかない。そういうことが必要になるということが災害のとき。それがいつ起きるかわからないというのが地震の怖さ」
根府川地区の山津波で辛くも生き延びた当時10歳だった、内田さんの父親・一正さん。心に深い傷として残ったのが、同級生たちの死です。
あの日、海岸へ泳ぎに行った友人たち20人余りが、山津波とその後の津波で犠牲になりました。一正さんも誘われていましたが、別の用事で断り、それが運命の分かれ目となりました。根府川では、震災後すべての遺体が捜し出されたわけではありません。
(内田昭光さん)「当時の状況を世間に知ってもらうということは(かつては)全体的にタブーだった。父も取材を受けたが、どちらかというとあまり(そういったことは)しないほうがいいよと言われていた時代もあった。
何と言っても(日本では)どこか危険なところに住んでいるのだということを、父から聞いたことを(今後も)伝えていけたらいい」