西南戦争の薩摩兵士達が眠る南洲墓地へ・・・
ポニー1号から薗田です☺
お盆期間はご先祖様のお墓参りに行かれる方も多いと思います。今年は明治維新150年ということで、大河ドラマ等もあり、西郷隆盛にも注目が集まっていますが、今日はその西郷さんを含む、西南戦争に敗れた薩摩軍の兵士達が眠っている南洲墓地について、南洲神社・宮司の鶴田伊都雄さんにお話を伺いました😊
こちらの南洲墓地、南洲神社のすぐ隣にありますが、最初に南洲墓地ができて、その後、西南戦争で亡くなった方を弔う場所が欲しい、ということでこの南洲神社を作ったそうで、戦前は南洲神社が管理していましたが、今は鹿児島市が管理をしているそうです。
沢山のお墓が並んでいますが、西南戦争で戦死した6765名の薩摩兵士のうち、2023名がこちらに眠っています。合葬墓もあるので、お墓の数は749基。
沢山の方が眠っているので、お盆は多くのご子孫の方達がお墓参りにくるのではないか?と思いますが、西南戦争で亡くなった兵士達は、10代の方や、奥さんのいない若い方が多かったこともあり、子孫がいない方が多いそうです。また、南洲墓地のお墓は、今のお墓のように身内が一緒に入る形ではなく、個人名でのお墓、その人しか眠っていないお墓が多い為、できてすぐは家族や親戚の方々がお墓参りにきていても、その方達が亡くなるとお墓参りに来る方がいらっしゃらなくなるそうです。
元々は、西郷さんを含む40名の方をこちらに仮埋葬したのが始まりで、その後、今では2023名の方が眠っていますが、当時の鹿児島県知事が明治13~16年のたった3年程の間でこれだけの兵士を集めたそうです。
また、仮埋葬をする際に、西郷さんのご遺体をこの鳥居の場所に置いたと言われているそうです。
こちらに埋葬するのはとても大変なことで、当時は今のように簡単にお墓を作ったり運んだりできないので、手作業でお墓を作り、南洲墓地のある高台まで運んだそうです😳
西郷さんの出身地は鹿児島市加治屋町ですが、なぜ、この地に作ったのか伺いました。島津の土地を県でもらい受けて作ったそうで、西郷さんが亡くなった岩﨑谷に近かったこともありここに作られたと言われているそうです。
また、お墓が海の方向を向いているのにも理由があり、海というより、桜島の方向を向いているそうで、桜島の遠い向こうに明治天皇が住んでいるのでそちらを見ているそうです😳
各墓石にはそれぞれ家紋も刻まれています。西郷さんのお墓を見ると墓石前の石でできた線香台と、お賽銭箱に家紋が刻まれているのですが、違う家紋が刻まれていました🤔理由を伺ったところ、元々は菊の入った紋章のほうだったのですが、天皇家の紋章が16弁八重菊に制定された際に、西郷さんは遠慮して、菊の葉だけの紋章を使用するようになったんだそうです!謙虚な西郷さんらしいですよね☺
南洲墓地をすぐそばで、いつも見ている鶴田さんだからこそ、鹿児島が注目されているこの今、思うこと、そしてこれからどうしていきたいか、伺いました。今年は明治維新150年ということと、また、マスコミでも取り上げられた影響もあって、観光客も2倍以上になったそうですが、明治維新を成し遂げたという表の部分だけでなく、西郷さんの素晴らしい人間性を沢山の方に講演等を通して伝えていきたい!と力強く語ってくださいました😊
お盆で帰省されている方、夏休みでこちらへ観光へいらっしゃっている方、そして今、鹿児島に住んでいる方も、これを機にご先祖様のお墓参りだけでなく、明治維新に尽力した方々のお墓参りに来て頂きたいと思います。