【8・6豪雨 30年目の証言③】河川氾濫で市街地が浸水

30年前の8・6豪雨災害を体験者の証言をもとに振り返っています。3回目は、鹿児島市街地に関する証言です。


(竹内さん)「濁流が3号線から入ってきていて、水の強さが怖かった、勢いが相当強かった」

鹿児島市加治屋町にある東京海上日動・鹿児島支店、竹内秀夫支店長、53歳。豪雨の2か月前、新入社員として配属されたばかりでした。

(竹内さん)「5階で勤務をしていたが、周りがざわざわしだして外を見たら、下に水が浮いていた。あっという間に水かさが増えた」

(当時の映像)『完全に水があふれています。車のヘッドライトのあたりは完全に見えない状態』

この日、大雨で甲突川が氾濫し、天文館など鹿児島市中心部の広い範囲が浸水しました。

(当時のインタビュー)
『腰のあたりまで水が来た。天文館で40年生きているが一番ひどい』
『地下は全部水没。止めようとしても止めようがない』

加治屋町にある竹内さんの会社ビルも1階部分が浸水しました。

(当時の映像・ビルの前)『あそこに一人いるでしょ、上がって来られんやろ、上に。電停にも人が沢山いる。みんな体が冷えて寒いだろうに』

夕方の帰宅時間とも重なり、天文館方面から当時の西鹿児島駅方面に向かおうとしていた多くの人たちが濁流の中で立ち往生しました。

(竹内さん)「電停よりこちら側に100人以上、もしかしたらもっと沢山いた。悲鳴をあげている人もいれば、しゃべれなくて震えている人もいればという感じで、皆さんパニック状態」

(竹内さん)「この柵は変わっていない。向こうの柵からロープを張り握ってもらい、避難してもらった」

竹内さんは先輩社員の指示の元、会社や周囲の人と協力して、電車通りを挟んだ向こう側へ救助用のロープを3本張りました。

(竹内さん)「ロープを張るのに、向こうから腰にロープを巻いてここまで歩いてきた。本当に怖かった。もしかしたら流されるかもしれないという命の危険を感じた」

恐怖と戦いながら、背の低い人やロープを握ることが出来ない人はおんぶをして、電車通りで立ち往生していた100人以上をビルの3階へ避難させました。

(当時社内で対応にあたった社員)「備蓄品やお菓子をタオルと一緒に渡した。避難された方の世話を優先しつつも、(自分も)どうなっちゃうのかなと思っていた」「川になっていたから。道路が」

(当時の映像)『あぁ、もう全部流れ出した』

ビル周辺の水かさはさらに増し、濁流は車も流しました。安全を確認しようと外に出ると、異様な光景が広がっていたといいます。

(竹内さん)「(水没した)車がショートしていた。街中の車のヘッドライトが一斉に、交互にピカピカ。街中フラッシュがたかれたような状態。その後、クラクションが30秒くらい鳴って、ぴたっと止まり、静寂。異様な光景を目の当たりにして、ブルっと怖さを感じた。本当に不気味な感じ」

水が引いたのは、日付が変わるころ。徐々に避難者は帰路につき、午前3時前、竹内さんも鴨池の自宅まで徒歩で帰りました。

(手紙を持ち出す竹内さん)「これが当時、私たちのビルに避難した方から頂いたお礼状です」

後日、会社には救助された人たちからのお礼の手紙が寄せられました。

(竹内さん)「皆さん感謝をしていただいて、ありがとうございますと言われたのを今で覚えている。助ける判断をして全員で行動ができたということに、ほっとしている。行動して良かったと改めて思う」

8・6豪雨災害から、30年。鹿児島支社には現在およそ180人の社員がいますが、当時を経験した人は竹内さんを含め5人ほどしかいません。

今年5月。竹内さんは県民向けのセミナーを開き、当時の記憶を語りました。

(竹内さん)「節目節目に思い返されることや、知る機会は非常に重要だと思っている。伝えないと記憶には残らないので、我々が伝えられる機会があれば、しっかりと伝えていきたい」

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