今週は、いろは歌を創った島津日新斉の生い立ちをお伝えしてます。
日新斉は、幼名(幼い頃の名前)を菊三郎と呼びます。
その彼が三才の折、父・善久は下人の手にかかって敢えない最期を遂げます。
悲嘆にくれた母・常磐はこの時23才。どうやって菊三郎を育てれば良いのか?
菊三郎の祖父に当たる久逸も高齢の為、頼ることも出来ず、母の常磐は途方に暮れます。
“戦国時代に三才の幼子が君主としての務めを果たすことが出来るのか?
一歩間違えば、伊作家は崩壊してしまうのではないか!?”
そんな不安から母(常磐)は、菊三郎に教育を与えることによって、伊作家に安泰をもたらし、そしてそれは夫の善久の供養になるのではないか?そう思い立ち、菊三郎に論語の素読を薦めたのです。
論語とは、中国の思想書のことで、日本には15代・応神天皇の頃、朝鮮の百済経由で入って来たと伝えられます。
菊三郎が七才になると、手習い(読み書き)する途を母は考えます。
不思議なことです。現在も昔も、七歳の頃には勉学の途にすすんでいたとは―。
そして母は菊三郎を、伊作に建立されていた海蔵院と呼ぶお寺に預けることにしました。
海蔵院には、頼増という和尚がいたのですが、とても厳格なお人で、一旦は菊三郎を預かることを拒否。しかし祖父・久逸、母・常磐の懇願を無下に断り続けることは出来ず、引き受けることになります。
お寺に入った菊三郎はなかなかのヤンチャで、和尚の教えも聞かず、思い余った頼増和尚は菊三郎をお寺の本堂にあった大きな柱に縛りつけます。それ以来、菊三郎は悪戯するたびに柱にくくりつけられます。
その柱は、“日新柱”と呼ばれるようになり、この海蔵院暮らしが「いろは歌」を創作する糧になったのです。
なお、この日新柱、実物は焼失してしまいましたが、再建されたものが日置市立伊作小学校に残されているそうです。
それでは、次回から「いろは歌」を一首ずつお伝えします。毎日ごわんそ!