先週から薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介しています。
郷中教育とは、士族、即ち、お侍さんの年少者を中心に行われたものです。
ただ、この「郷中教育」、薩摩の場合、士族と言っても、城下侍と外城侍、即ち、地方の侍とに分けて考えなければなりません。
薩摩は「人をもって城と為す」と言われたように、国防=国の護りは、「人は城、人は石垣、人は壕」として、お城などの建物に重きを置かず、「人を楯」と考えていたのです。
その証として、江戸時代後半、肥前平戸の藩主 現在の長崎県平戸のお殿様・松浦静山候が著した古文書「甲子夜話」には、『薩摩の殿様の居城は、実は城に非らず館造り也』と書かれています。
つまり、平地に作られた平屋建てのお城なのです。
続けて読み進めると、
『その大手=入口の前には、自然の川があり、その先に大門。後ろは、山有りげに見えて高みなり。
館の周り、表に向かう所は尋常の堀にて石垣は無し。その他は皆、棚を構えて矢狭間などと言うものなしとなり』
とあります。矢狭間とは、お城の壁や櫓などに開けた、矢を射る為の穴のことです。
薩摩独特のお城・屋形造りは、第十八代当主・島津家久が清水城を出て、現在の鹿児島市立大竜小学校に城を構えた時から作られているのです。
詳しくは、また明日。
では、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。
また明日。毎日ごわんそ!