慶応4年3月22日 姫路城の管理 薩摩藩士に
きょうは慶応4(1868)年3月22日です。新政府は、姫路城の管理を薩摩藩士にまかせることとしました。
兵庫の行政を担当する兵庫裁判所総督・東久世通禧は、新政府の徴士参与で薩摩藩の岩下方平と姫路を視察しました。
姫路藩の藩主で、幕府老中だった酒井忠惇は、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府側につき敗北し、徳川慶喜とともに大坂から江戸に逃れました。
これを受け新政府は姫路藩を「朝敵」とし、追討を決定。
いっぽう藩主不在の国許では、家臣が独自の判断で新政府側に降伏し、1月に姫路城を無血開城しました。
しかし、藩主・忠惇は、逃亡先の江戸で徳川家に従う姿勢を示したことなどから、新政府は今月7日、忠惇の官位を剥奪しています。
現在、姫路城には、新政府側の備前岡山藩兵が入っていますが、きょう城を視察した東久世と岩下は、姫路城と城下を薩摩藩の管理下に置くこととしました。藩主・忠惇の姿勢に呼応し、新政府に抵抗する動きがないか警戒を強めるためとみられます。