ハンセン病元患者たち

2001年、国のハンセン病政策の責任と元患者たちへの賠償を認めたハンセン病訴訟の判決から、きょうで17年です。
国の施策の誤りで長年、差別を受け社会から隔離された元患者にとって平成はどんな時代だったのか?取材しました。

(田原美枝子さん)「私が敬愛園にいるってことが言えなくて。それはそれはつらいことですよ、自分の居場所をいえないというのは」

田原美枝子さん(77)。ハンセン病の元患者です。鹿屋市にある国立療養所星塚敬愛園で暮らしています。

国立療養所は、かつて国の政策でハンセン病の患者が、ふるさとや家族と引き離され、強制的に収容された場所です。

ハンセン病は、らい菌の飛沫感染によって皮膚や末梢神経が侵される病気です。顔が崩れたり手足が曲がるなどの後遺症が残るため、激しい差別の対象となりました。

感染力は弱く、戦後、特効薬が導入されましたが、国は1907年明治40年から法律で患者を世間から隔離する政策を続け、強制隔離は1996年(平成8年)に「らい予防法」が廃止されるまで続きました。

田原さんは奄美大島出身です。
16歳のころ大島紬の機織をしていた時に手に異変を感じました。

「手が腫れて小指も曲がりかけて、その時に親戚が気づいて。」

ハンセン病と診断され奄美大島の奄美和光園に収容。外出許可をもらい家に帰った時、母親から外を出歩かないように言われたといいます。

「母が『歩くな』『人に見られるな』というから悲しくなって。やっぱり家族に迷惑な私なんだなと思った」

美枝子さんは19歳で、同じくハンセン病患者として隔離されていた田原弘美さんと出会い結婚。夫の入所していた星塚敬愛園に移り、以来60年間、園内で暮らしてきました。
20年前に夫の弘美さんが他界してからは1人です。

美枝子さんが名乗る夫の姓は、本名ではありません。
かつて療養所で暮らす入所者の7割は偽名を使っていました。

ハンセン病では、患者はもとよりその家族も結婚や就職をこばまれるなど差別を受けました。
現在も家族への偏見や差別を恐れ偽名を名乗る人がいます。


元患者が受けてきた差別を象徴する場所があります。
火葬場です。

差別のため遺体を園の外に出すことはできず、入所者は煙になって初めて社会に帰ることができると言われていました。
この火葬場は、平成に入ってからも使われていました。

今月、田原さんが親しくしていた入所者の女性が亡くなりました。
園内の納骨堂には、引き取り手がないなど亡くなってもなお故郷へ帰ることができない1593柱が眠っています。
田原さんは、ふるさとの奄美ではなく、この納骨堂で星塚に残りたいと話します。

「ここのほうが自分のふるさとみたい。(納骨堂に)残っているの私が面倒を看た人や知り合いの人とか。その人たちのことを思えば私も帰らない。ここにいたい。自分だけ帰りたくない」

今の季節、園では毎年こいのぼりが掲げられます。

しかし、国の政策では入所者が子供を持つことは許されませんでした。
妊娠しても、子孫を残させないために堕胎が行われました。
全国の療養所で昭和から平成にかけてのおよそ50年間に、7696人の小さな命が光を見ることなく、奪われました。

「勝訴です勝訴の判決です」

元患者が起こした訴訟で、国のハンセン病政策の誤りを認める判決が言い渡されたのは2001年。
差別的政策が始まってから90年余りが経っていました。


 

最初の原告の一人竪山勲さんです。
2004年に園を出て社会復帰しました。ハンセン病問題は終わっていないと語ります。

「ここが私の故郷だという入所者がいる。それを聞くたびに悲しい思いがする。強制隔離されて血の涙を流したこの場所を故郷と呼ばなくちゃならない人たちの思いをもう一回考えてほしい」


星塚敬愛園の入所者は現在129人。平均年齢は87歳で50人以上が90代です。毎年10人近くが亡くなっています。

自治会長を務める岩川洋一郎さん(81)。11歳で入所してから70年にわたり星塚で暮らします。
平成は、明治、昭和から続いた国の差別政策にピリオドを打った時代になりました。しかし、元患者が社会に差別され、隔離され生きてきた事実に終わりはありません。

「ハンセン病患者がここにいて国からこういう生活を強いられ、私たちが生きてきたことを何百年経とうが後世に残したいというのが願い」


「(平成になって)らい予防法が廃止になったのは私にとって大きい。平成という時代はよかった。次はいい時代になるように願っています」

星塚敬愛園で暮らす元患者の中には辛い記憶を語れないままの人も多くいます。
この場所で何があり、どのように生きたのか。元患者の高齢化が進む中、歴史を次の時代にどのように伝えていくのかが問われています。