あの日から25年「8・6豪雨災害」を振り返る
あの日から25年。鹿児島市を中心に甚大な被害をもたらした8・6豪雨災害を当時取材した城光寺記者が振り返ります。
かつてない長雨に見舞われた平成5年の夏。
鹿児島市では、7月の降水量が観測史上最多の1055ミリを記録しました。
この長雨に局地的な集中豪雨が重なったのが8月6日でした。
2時間で180ミリの局地的な豪雨で稲荷川、新川が相次いで氾濫。
そして、誰もが予想していなかった甲突川もあふれ、街は完全に水没しました。
(住民は)
「生まれて初めて。水の怖さは。」
「床上はひざ、外は胸まで。とても歩ける状態ではない。」
(当時の放送)
「また大雨になりました。鹿児島市の竜ヶ水駅近くで、住まいが流された模様です。また、犬迫町河頭でも、住まいが埋まっている模様です。」
夕方の帰宅時間とも重なって、人々はあちこちで立ち往生しました。
(1993年 城光寺記者)
「道路の中央に立ち往生している車があります。もう完全にパニック状態。車も人も全く動けない状態になっています。」
(城光寺記者)
「鹿児島市中央町です。25年前、濁流に飲み込まれたナポリ通りで、多くの人が立ち往生したのは、ガソリンスタンド前にあるこのあたりです」
会社員の村田明子さん(45)は、8・6豪雨災害のとき、このガソリンスタンドに勤めていました。
(村田明子さん)
「みんなで建物の上に逃げて、ただ待っているしかなかった。その時は、ナポリ通りは川というか、流れも速くて、車が流れていた。」
鹿児島市の国道3号線。平田橋付近の映像です。
国道が川のようになっています。車の中に閉じ込められ、濁流で動けなくなった人に、ロープを投げての懸命の救出が続きました。
激しい濁流は、140年の歳月に耐えた石橋を破壊しました。
(1993年 城光寺記者)
「こちらのほう、実は、鹿児島の五大石橋であります武之橋が姿も形も無くなりました。貴重な鹿児島の財産をなくしてしまいました。」
(城光寺記者)
「鹿児島市下荒田です。25年前の8・6豪雨で武之橋と新上橋の2つの石橋を崩した甲突川ですが、きょうの流れは穏やかです。」
近くで飲食店を経営する松﨑初美さん(75)は、武之橋が崩れる瞬間を見ていました。
(新橋・松﨑初美さん)
「戻ろうかと思って、振り向いた瞬間にダーンと音がしたから、ハッと思って見た時には、向こう半分、橋の半分が落ちて、こちらはまだあったが、その後また、こちらも落ちたが、それは見ていないけど、涙が出た。」
午後9時すぎには満潮と重なり、水位はピークに達しました。
(MBC前)
「現在、1メートル20センチから1メートル50センチ。さだかではないが、かなりの水量が来ています。」
天文館にも水は押し寄せ、地下にある多くの飲食店が水没しました。
鹿児島市交通局で現在も嘱託で運転手を続ける四元敏夫さん68歳もあの日、運転していたバスを停めて水が引くのを待ちました。
(鹿児島市交通局四元敏夫さん)
「ここでいったん停車して、それから中の客に案内し、これからは危険なので、ここからUターンをして、向こうの橋を越えて、一番高い所で停車をして、しばらく水が引くまでは運行を停止して待機した。」
携帯電話もインターネットも普及していなかった当時、公衆電話には行列も。電話はつながりにくく、多くの人が不安な夜を過ごしました。
(119番通報の録音)
消防「消防車がすぐには行けないので、逃げて。」
通報「逃げるにも何か・・・」
通報「女の方と男の方が流れていった。」
消防「はあ、流れていった?」
通報者「おら、おーい」
海と山に挟まれた竜ヶ水一帯はがけ崩れで道路が寸断。
国道10号にいたドライバーやJR日豊本線の乗客などおよそ3000人が孤立しました。
(竜ヶ水)
「鹿児島市吉野町の国道10号線沖に来ています。車に乗っていた人たちは、海の漁船のほうに、助けてと救助を求めています。」
海上保安部や桜島フェリー、漁船などが駆けつけ、救助は海から行われました。
(乗客)
「雨は激しいし、土石流が起こるんじゃないかと不安だった。本当にみんな生きた心地がしなかった。」
被害の全貌が明らかになったのは一夜明けてからでした。
(竜ヶ水空撮)
「土石流がJRの駅舎もろとも海に流れ出ているのがわかります。避難するために乗り捨てられた車が、南北それぞれにびっしりと並んでいます。」
鹿児島市吉野町花倉では、住民6人と病院の入院患者9人の合わせて15人が土砂崩れに巻き込まれ亡くなりました。
8・6豪雨災害の死者行方不明者は49人。
床上・床下浸水は1万3000戸。断水は1週間に及びました。
日豊本線の復旧はおよそ1か月。
道路や家に入り込んだ泥や、がれきの撤去にも時間がかかるなど市民生活に大きな影響が出ました。
多くの教訓を残した8・6豪雨災害から25年。
災害の記憶を風化させないように、次の世代にどう伝えていくかが課題となっています。