【8・6豪雨 30年目の証言④】国道崩れ「グランドキャニオン」出現 鹿児島市小山田
30年前の8・6豪雨災害を体験者の証言をもとに振り返るシリーズです。
4回目は、がけ崩れにより孤立した鹿児島市小山田町で何が起こっていたのか、振り返ります。
(当時の映像)『鹿児島市小山田町の国道3号線です。長さ100メートル以上にわたって道路が無残にも削り取られています。手の施しようがないという感じです』
鹿児島市小山田町名越では大雨で増水した甲突川によって、国道3号の土台が大きく浸食され、陥没。その姿は峡谷のように見えたことから「グランドキャニオン」とも呼ばれ、8・6豪雨の象徴的な災害のひとつとなりました。
(記者)「ちょうどこのあたりから大きく陥没しました。国道3号も寸断されましたが、現在の様子からは想像がつきにくいです」
豪雨により小山田町では、県が把握しているだけでも13か所のがけ崩れが発生。交通はストップし、孤立も発生しました。
(ラジオ音源)『(Q.がけ崩れなどもあったんですよね?)がけ崩れもありまして、部落の人たちはみんな避難しています』
当時の状況はMBCのラジオでも伝えられていました。
(ラジオ音源)『(Q.小山田の辺りはどんな状況でしょうか?)車がとまりっぱなし、もう全然動けないんです。パニック状態。前の道路が土砂いっぱい、うちの先の橋も流された。もうすごい』
映像に収められたがけ崩れ現場から60メートルほど南にある田中商店の田中和子さん(84)です。
(田中和子さん)「最初は角の小さいところから(土砂が)落ちて、それからがすごかったですよ」
当時、MBCラジオには渋滞状況などを伝える情報スタッフが幹線道路沿いにいて、田中さんもそのひとりでした。
(ラジオ音源)『完全に孤立してどっちにも行けない状態なんです』
(田中和子さん)「怖いと考える暇もない、忙しくて一晩中。本当に大変だった。雨が降ればトラウマになって」
当時、夫は消防団で大雨対応、子どもたちも仕事で帰ってこられず、田中さん1人で孤立した小山田町の様子を伝えました。
(ラジオ音源)『お店のほうも電話のお客さんが多い。電話も不通になったり通じたりする』
(田中和子さん)「ここに(公衆電話があった)。その時はずーっと並んで、そして、うちの中の電話も使っていた」
携帯電話が普及していなかった当時、家族の安否を心配する人が店に大勢集まりました。田中さんは公衆電話だけでは足りないと、自宅の電話まで貸し出し。その後の電話代の請求は、かなりあがったといいますが…
(田中和子さん)「おかげさまで家は全然被害がなかった。だから、少しでもかねてのお返しですよね」
孤立し、困っている人たちに差し伸べられた手は、ほかにも。
小山田町に住む中西実奈子さん(50)です。当時、学生でした。
(中西実奈子さん)「図書館にいて昼過ぎでも雨がひどかったので、早めに帰ってきた。目の前の道路が川みたいになって水の量が増えてきていると、どうなるんだろうと不安はあった」
そんな中、近所でがけ崩れが発生。
(中西実奈子さん)「道路もストップしていて、父がとまっていた車の人たちに、そこは危ないから家に来なさいと。車庫と家を開放して、一晩一緒に雨宿りをしました」
道路が寸断され行き場を失っていた人たちに、実奈子さんの父・詔一さん(78)が自宅を避難場所として開放しました。
(中西実奈子さん)「この部屋や玄関に人がわーっと。40人くらいはいたかと。この中で一晩ラジオをききながら」
現在、詔一さんは脳梗塞で入院中ですが、元気に療養を続けています。当時の詔一さんの行動には、市長からも感謝状が贈られ、今も部屋に大事に飾られていました。
(中西実奈子さん)「父もとっさに働いて。近所の人も声を掛け合ってね、一緒に(Q.つながりがあった?)そうですね。つながりが」
(田中和子さん)「(Q.田中さんも物資を運んだ?)カップラーメンを(店から)持ってきてね」
(中西実奈子さん)「てんやわんやでしたね、人も多かったし」
当時の経験から田中さんは、もしもの時の人とのつながりの大切さを感じたと振り返ります。
(田中和子さん)「災害があったときは声を掛け合って、みんな大丈夫だったね、うちにおいでとかね、隣近所は大事ですよ」