今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介しています。
先週からお伝えしているように、明治41年、イギリスの軍人 パウエル卿が、イギリスの少年達の心身を健全に育成する為、創ったとされる組織「ボーイスカウト」。創設のもとになったのは、薩摩の郷中教育であったという説があります。
世界的な「ボーイスカウト」の原点が郷中教育にあるらしいとは、いささか驚きでした。
ここからは、その郷中教育について一緒に考えていきましょう。
そもそも郷中教育の「郷中」とは、まず「郷中」と呼ぶ広い地域があって、その中に「方限」が存在していた・・・というお話は、以前にもお伝えしました。
現代に例えるならば、「郷中」は鹿児島市で、「方限」とは、吉野町、照国町、高麗町などの町に相当するようです。
その中で、薩摩藩士、つまり武士の子弟の年少者だけを対象とした、いわゆる青少年教育が郷中教育と呼ばれ、薩摩独特のシステムだったのです。
さて、今からおよそ420年前、文禄元年(1592年) 豊太閤 豊臣秀吉は、突然、朝鮮・中国へ侵入することを企て、本陣を肥前、現在の佐賀県の名護屋に設け、薩摩にも出兵するよう命じて来ました。
島津の当主 義久は『所労の為』つまり「病の為」出陣できないと断り、その代わり弟の義弘・久保父子が一万の兵を率いて出陣。
この頃の薩摩は、大変に貧しくて「寺領」つまり、お寺が持っている土地の3分の1を没収して、戦のための費用に当てなければならない程。それくらい薩摩は困窮していたのです。
それから4年後の慶長2年 秀吉は、更に薩摩に対し朝鮮出兵を命じて来ます。
この朝鮮出兵、1回目は「文禄の役」、2回目を「慶長の役」と呼びますので、ご存知の方も多いと思います。この続きは、また明日。
では、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。また明日。毎日ごわんそ!