今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介していきます。
これまでもお伝えしているとおり、明治41年、イギリスの少年達の心身を健全に育成する為、創ったとされる組織「ボーイスカウト」。
創設のもとになったのは、薩摩の郷中教育であったという説があります。
遠くはなれた薩摩とイギリス。その接点は、薩英戦争にありました。
文久3年6月 錦江湾に侵入してきたイギリス艦隊は、重冨沖に繋いであった薩摩の船を分捕り、桜島小池沖に移動させます。
これをキッカケに、大嵐の中、薩英戦争が開戦。
最初に天保山砲台から発射。続いて、桜島や祇園洲の砲台からも次々と発砲。
それに対してイギリス艦隊も反撃。
この戦いには、加治屋郷中の東郷平八郎も参戦していて、東郷の母親は、飛びくるイギリス砲弾の下に食料を届けた・・・というエピソードも残っています。
それくらい、薩摩にとっては国を挙げての重要な戦いでした。
海戦の結果、イギリス艦隊は、何の目的も果たせずに退去。
しかし、戦斗が終わった後の鶴丸城下の北部は、火の海と化し、磯の集成館も破壊され、城下の市街地は、見るも無残な有様でした。
この戦いで薩摩は、外国文明の威力が如何に優れているかを知り、このままの日本では、到底外国には太刀打ちできないと反省し、これまでの「尊皇攘夷」を改めなければならないと考えるようになりました。
薩英戦争は、日本に一石を投じた戦いと言えそうです。
では、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。また来週。毎日ごわんそ!