薩摩の教え

郷中教育12

今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介しています。

昨日もお伝えしたとおり、「ボーイスカウト」と言う組織は、明治41年、イギリスの軍人 パウエル卿が、イギリスの少年達の心身を健全に育成する為に創ったとされています。そして、そのボーイスカウト創設のもとになったのは、私達、薩摩の郷中教育であった・・・という説があります。

では、パウエル卿は、どうして遠く離れた日本、しかも薩摩の郷中教育を知ることができたのでしょうか?その答えは、生麦事件なまむぎじけんたんはっした薩英戦争にあったといいます。

 

今から156年前の1862年、文久ぶんきゅう2年8月。
島津斉彬の異母兄弟の島津久光は、当時「国父こくふ」という立場にありました。国父とは、お殿様ではないものの、人々から尊敬され、親しまれている存在です。

斉彬が亡くなった後、国父こくふである久光が、薩摩のまつりごとに携わることとなり、勅使ちょくし大原重徳おおはらしげとみに従って、江戸へ行きます。そこで、江戸末期の職である将軍後見職しょうぐんこうけんしょくに徳川慶喜よしのぶを、政事総裁職せいじそうさいしょく松平慶永まつだいらよしながを就任させるなど、幕政改革に成功します。

 

務めを果たした久光は、意気揚々と薩摩への帰途の道を急いでいました。そして、品川・川崎を過ぎ、横浜の生麦村なまむぎむらに差しかかった時、神奈川方面からイギリス人男性3名、女性1名の計4名が馬でやってきました。
彼らは、日本の風習を知らなかったので、久光の行列の前を横切ります。
これが「生麦事件」の発端なのです。詳しくは、明日・・・

 

では、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。
また明日。毎日めにっごわんそ!

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