薩摩の教え

郷中教育13

今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介していきます。

これまでもお伝えしているとおり、明治41年、イギリスの少年達の心身を健全に育成する為、創ったとされる組織「ボーイスカウト」。
創設のもとになったのは、薩摩の郷中教育であったという説があります。

遠くはなれた薩摩とイギリス。その接点は、薩英戦争にありました。そのキッカケとなったのは、横浜の生麦村で発生した「生麦事件なまむぎじけん」でした。


 

島津久光が江戸から薩摩へ帰る途中、生麦村に差し掛かった時、イギリス人男女合わせて4名が馬に乗ったまま、久光の行列を横切ります。
当時の日本では、大名行列に出会った時には、土下座しなければならなかったのですが、イギリス人達は、その習慣を知りませんでした。その為、乗馬したまま、久光の行列の先頭を横切ったのです。

これに気付いた供侍ともざむらい奈良原喜左衛門ならはらきざえもんが先頭を走っていたイギリス人「リチャードソン」を斬り捨て、男性2名も怪我をし、女性1人だけが横浜へ逃げ帰ることが出来たといいます。

 

この事件を知った横浜在留の外国人たちは、大いに怒りました。
横浜碇泊中の外国軍艦から水兵を上陸させ、久光の行列に復讐する計画を立てますが、イギリス代理公使「ニール中佐」は、これを止め、幕府に下手人げしゅにんの引渡しを要求しました。

 

これに対して薩摩側は、浪人風ろうにんふうの男3・4名が犯した事件で全く預り知らぬことだと返答。
怒ったイギリスは、徳川幕府に謝罪書と10万ポンドの賠償金を、薩摩に対しては、遺族扶助料いぞくふじょりょうおよび負傷者慰謝料ふしょうしゃいしゃりょう2万5千ポンド。そして、下手人げしゅにんの処刑を要求してきました。

 

幕府は、しぶしぶ要求を呑んだものの、薩摩はあくまでも知らん顔。
これが「生麦事件」ですが、中々解決されない為、イギリスは、軍艦を薩摩へ向わかせます。これが薩英戦争へと発展するのです。

 

それでは、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。また明日。毎日めにっごわんそ!

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