明治維新から150年の今年、維新の力を生んだ「薩摩の教え」を改めて皆さんと共に学んでいるこの番組。今週は、加治木・精矛神社の宮司を務めるかたわら、薩摩武士道の精神を継承する活動に取り組んでおられる加治木島津家第13代当主・島津義秀さんのお話をお届けしています。
昨日は、戦国時代の末期、島津忠良、日新公が「いろは歌」を青少年に普及するために薩摩琵琶を改良し、プロデュースしたというお話をお伺いしました。
島津さんによると、当時、日新公は薩摩琵琶をプロデュースするとともに「歌舞、音曲を禁ずる」という禁止令を出したのだそうです。歌や舞、音楽や曲を口ずさむことは浮ついており、風紀を乱すとして禁止されたのです。
一方で「ただし、琵琶、天吹は音曲にあらず」、「侍踊りは歌舞ではない」として、薩摩琵琶と天吹、侍踊りは、武士のたしなみとして奨励されるようになり、武士たちの間で広まっていくことになったのです。
そうこうしているうちに、薩摩を大きく揺るがす、あの戦が起こります。
(島津さん)大小いろんな戦があったわけです。いちばんのハイライトというのが1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いです。ここでもし全滅していたら、この話はなかったと思うんです。
ところが、記録によると、1500名で出陣して300数名になりながら敵中突破して、地元の鹿児島まで80数名が帰ってきたと。そういう歴史的な話があり、この80名のもとに、地元の若者が、話を聞きたいといって集まったわけです。
そして、関ヶ原の話を伝えてほしいと自主的な勉強会がだんだん広まっていく。これを、次に、次に、伝えていくなかで、この動きが自然と始まって郷中教育というスタイルになっていった・・・ということを聞いています。
それでは、この続きはまた明日。