今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介しています。
郷中と一言でお伝えしても、その下に「方限」という組織が存在していました。
昨日ご紹介したように、鶴丸城前のお堀を境に東と西に分け、それぞれを上方限・下方限に組織わけしていました。
例えば、上方限に属した組織は、鶴丸城下には、「岩﨑・冷水・清水馬場」など15ヵ所、下方限に属した組織は、「新照院・高見馬場」などの18ヵ所。上・下併せて33の方限が存在していました。
地方には、いくつの郷中が存在していたのか資料が残っていませんので、はっきりとした数字はお伝えできません。
薩摩は「人を以って、城と為す」という考えのため、お城は鶴丸城だけで、地方には、麓と呼ばれる集落が存在し、そこに住むお侍・武士は、日常は農業に勤しみ、合戦があるときだけ太刀・弓矢を取り、敵と戦っていました。そのため彼らのことは、日によっては農業に携わるという意味で「日して牛」、または、「外城侍」などと呼んでいました。
その麓のお侍さんの子供や青年、子弟を教育するため、郷中教育が行われました。
薩摩には、そんな「麓」、つまり外城が102存在しており、それぞれの中で郷中教育が行われていたと推測されるのです。
鶴丸城下、そして麓の郷中教育の掟は、
「第一は、武道を嗜むべきこと。兼ねて士の格式油断なく穿儀致すべきこと」
即ち、武士・侍として恥ずかしくない修練を積み、一旦緩急(差し迫った事態が)あれば、遅れをとらないよう、身も心も鍛えて立派な侍としてつとめを果たすよう、訓練するのが二才にとっての掟でした。
では、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。また明日。毎日ごわんそ!