今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介しています。
昨日もご紹介しましたが、およそ10年にわたる朝鮮の戦役のため、兵を送り出した鶴丸城下の留守宅では、風紀が乱れ、眉をひそめるほどでした。
この事態に心を痛めた一人が新納忠元。大口の守りの大将で、豊臣秀吉が薩摩攻めをして来た時も、一歩も引かず、秀吉を驚かせた武将です。
67歳の老齢のため、留守を守る「留守居役」を勤めていましたが、風紀が乱れ、青少年が堕落する様を全て自分の責任と受けとめます。
そんな時、新納忠元は、少年時代に日新公を中心として催されていた『咄』と呼ぶ組織を思い出すのです。
新納忠元は、幼いころ、加世田にいて日新公に育てられた一人でした。
日新公は、次の世代を背負う青少年教育に重大な関心を持っていて、家臣の子弟を集め教育していました。
その教育は、朝早くから始まり、まず髪の毛に櫛を入れ、その後、観音経と呼ぶお経を読ませます。その理由は、「お経を唱えることによって、一日を幸福に暮らせるように」との思いからでした。それが終わると、机に向かって、昨日学んだことを復習させました。
勉強しない子弟には、非常に厳しく対処し、棒や拳で打ったりもしていたそうです。
そんな文武両道の教育システムを採用したのが郷中教育の原点なのです。
では、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。また明日。毎日ごわんそ!