今週は西郷南洲遺訓の紹介をお休みして、歴史家の加来耕三さんのインタビューをお送りしています。
(加来耕三さん)「私は何も、明治維新に至るまでのプロセスが正解だったとは思わない。
薩長同盟であっても無理をしているところはある。が、もし薩長同盟が成立しないまま、西郷さんが鳥羽伏見から以降のプロセスをやらなかったら、日清日露の戦いの前に、日本は植民地になっていた(であろう)。
日本の300諸侯がそれぞれに欧米列強とことを構えたなら、一つずつ抜かれていく(現にアヘン戦争がそうだった)。
何故、イギリスは清国に勝ったのか?
清の人口は3億5000万人。イギリスは1000万人。清国の軍隊は、陸軍だけで88万人。イギリスがアヘン戦争に投入した全兵力は2万。44対1なのに、何故1が勝つのか?もっと言うなら、なぜアヘンが広まったのか…?(体に悪いものなのに)
この「アヘンが清国に広まった」ということと、「大国の清がイギリスに負けた」というのは同じ理由。原因は一つ。封建制だったから。
全国から一斉に88万人が動いたら勝てたのに(省、州が国だったから)動かなかった。
日本はどうかというと、日本もまさに封建制(幕藩体制)だった。それぞれの藩が「国」だった。
現に薩摩は薩英戦争をやったが、熊本や宮崎は助けに来なかった。結局戦ったのは薩摩一国。これが封建制。だから、藩がそれぞれに事を構えたら、一つずつ潰されていっただろう。
アヘン戦争について(このような)研究したものを読んだ人間は、当事国の清にはいなかった。さらに李朝朝鮮(清国を師匠と仰ぐ)も読んでいない(目をそらしていたかったから)。
ひたすら読んでいたのは、当時30代の島津斉彬。それがどれだけすごいことだったか。。。」
明日もお楽しみに。