慶応4年5月16日 上野戦争 江戸市民の対応は
きょうは慶応4(1868)年5月16日です。きのう1日で終結した上野戦争をめぐり、江戸市民の対応が明らかになってきました。
上野・寛永寺に立てこもった武装勢力、彰義隊は、きのう薩摩藩、佐賀藩、長州藩などからなる新政府軍に征圧され、上野戦争は1日で終わりました。
新政府軍を指揮した大村益次郎は、火が市街地に広がらないよう攻撃を雨の時期に合わせたほか、敗残兵の退路まで計算し、作戦を立てていましたが、江戸の庶民は戦火が広がるのを心配していました。
きのう、上野近くの花街・柳橋では、彰義隊の敗残兵を追い詰めるためか、新政府軍が大砲を持ち出して橋を落とそうとしていました。
その時、町火消しの「ろ組」の頭が大砲の前にぴたりと座り建物の密集地で大砲を撃つことについて、異義を唱えました。
頭は隊長へ向かい、橋が落ちればいいのかこのあたりを焼き払うつもりなのかと真意を質しました。
その上で、『私たちで橋を落として差上げますから、大砲はお止めなすって下さいサア野郎ども来い』と言うと、20人ばかりの火消しが現れあっというまに橋を叩き壊したということです。