慶応4年5月10日 新政府北陸軍vs長岡藩
きょうは慶応4(1868)年5月10日です。新政府北陸軍と、越後の長岡藩が戦闘に突入しています。
越後長岡藩の家老・河井継之助は、奥羽諸藩と新政府との戦いで和平を模索し、新政府軍と会談しましたが決裂。長岡藩は、東北と北越の30数藩が、新政府に対抗するために結成した奥羽越列藩同盟に参加しました。
きょうは長岡城下から南へおよそ12キロの三国街道・榎峠で河井継之助率いる長岡藩兵と、新政府北陸道軍との間に戦闘がありました。
長岡藩は、ガトリング砲など強力な武器をそろえ西洋式の軍事訓練を重ねていました。
榎峠には先に新政府軍が侵攻していましたが、河井はこれを退け、榎峠を制圧しました。
しかし、三国街道脇の朝日山には、長州を主力とする新政府軍がいて、攻防戦は、さらに激化することが予想されます。
いっぽう京都では、薩摩藩家老で新政府参与の小松帯刀が、江戸へ向かうよう命じられました。しかし、小松は持病があり、江戸行きに消極的ということです。