慶応4年2月16日 容保は会津へ堺では発砲
会津藩の元藩主・松平容保と、家督を継いだばかりの喜徳父子が、江戸を出て会津へと出発しました。
京都守護職を務めた松平容保は、鳥羽・伏見の敗戦で江戸に後退して以降、徳川慶喜に遠ざけられていました。
会津へ帰る容保父子の供はわずか16人。会津では、薩摩・長州など新政府側への反発の声が高まっています。
一方、きのう大坂の南、堺で土佐藩士がフランス水兵の一団に発砲し、11人が死亡する事件がおこりました。
土佐藩によりますと、堺の町を遊び歩いていたフランス水兵が警備の土佐藩兵と衝突し、藩の旗を奪うなど乱暴をはたらいたため発砲したということです。
一方、フランス側は、「何もしていないのに土佐藩から突然銃撃を受けた」としており、主張は食い違いをみせています。
深刻な外交問題に発展するおそれがあり、新政府の外国事務局判事・小松帯刀は、参与数人をきょう、大坂に派遣し、事実関係の把握を急いでいます。