慶応4年2月12日 慶喜 寛永寺に閉居
きょうは慶応4(1868)年2月12日です。
前将軍・徳川慶喜が、江戸城を出て上野の寛永寺に閉居しました。
上野の寛永寺は、3代将軍・家光によって寛永2年(1625)に開かれた徳川家の菩提寺です。
朝敵とされた慶喜は、徳川家存続のため、朝廷へ恭順の意を示そうと、きょう江戸城を出て、寛永寺に移りました。通常、将軍が城の外へ出る場合、道中は人払いされますが、旧幕府幹部は会議で、慶喜が将軍の地位にないことから、道中の人払いは必要ないとしました。
そこで、新撰組の局長・近藤勇は自主的に江戸城から上野までの要所に部下を配置し、密かに護衛しようと苦心しましたが、会議の決定が覆り人払いが行われ、近藤は、怒りをあらわにしたということです。
一方、新政府側では、慶喜討伐の早い実行を主張していた西郷隆盛が、独断で兵を率いて、京都を出発しました。薩摩藩士の桐野利秋、村田新八、篠原国幹も同行しています。