慶応4年1月9日 新政府軍勝利 基盤固める
きょうは慶応4(1868)年1月9日です。鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍の中心は、西郷隆盛率いる薩摩軍でした。
旧幕府軍1万5000に対し、わずか5000の兵で挑んだ新政府軍。その中心は、薩摩と長州で、西郷隆盛は、東寺の五重塔に登り、戦況を見ながら指揮しました。
対する旧幕府軍には、会津・桑名・新撰組なども加わっていましたが、装備に勝る新政府軍と錦の御旗を前に総崩れとなり敗走。旧幕府側の戦死者は、新政府側の3倍近いおよそ280人でした。
去年11月の坂本龍馬暗殺の実行犯とみられる京都見廻組の桂早之助も鳥羽・伏見の戦いで戦死しています。
旧幕府軍は、徳川慶喜が大坂城を逃げ出し、政治の中心・京都の支配権を完全に失いました。
(西郷南洲顕彰館 徳永和喜館長)「政治の中心が朝廷を中心として動いているときに、(慶喜が)京都を失ったことの意味はすごく大きい。幕府が日本で唯一の政府と、外国にも認識されていた。そういう地位を全部失くしたことになる。」
旧幕府軍は、大坂城に火を放ち、東へ逃げ延びました。王政復古後、傍観の姿勢だった西国諸藩も新政府支持を表明。鳥羽・伏見の戦いと慶喜の敵前逃亡は、脆弱だった新政府の政治基盤を強める結果となりました。