水俣病を撮り続ける写真家 鹿児島側で目の当たりにした状況「忘れられている 写真にはできない悲惨さがあった」
水俣病をテーマにしたシンポジウムが、先週、鹿児島大学で開かれました。登壇したのは熊本だけでなく鹿児島の状況も撮影してきた写真家です。写真家が見た水俣病のこれまでと、これからとは。
(小柴一良さん)「これは50年ほど前に、出水市の鶴が来るところで撮影した。この人は撮影の2年後に亡くなった」
今月2日、鹿児島大学で開かれた水俣病について考えるシンポジウム。撮影した写真について説明するのは、大阪府出身の写真家小柴一良さん(75)です。
熊本県水俣市だけでなく、出水市でも水俣病をテーマに撮影してきました。
(小柴一良さん)「これは彼の右手だが、赤子の手のように優しい。手を道具として使ったことがないんです」
水俣病は、1956年に公式確認された四大公害病の1つです。水俣にあるチッソの工場がメチル水銀を含む排水を海に流したことにより、汚染された魚介類を食べた人々が手足のしびれ、耳鳴りなどの神経障害を発症しました。
(小柴一良さん)「もっとこっちだよね」
1974年から撮影のため水俣市に移住した小柴さん。5年間いたうち半年ほどを出水市で暮らしました。シンポジウムに合わせてゆかりの地を訪れました。
当時そこで出会ったのが、シンポジウムでも紹介した写真に写る男性でした。男性は水俣病の症状を抱えながら国の認定を受けられず、人知れず暮らしていました。
(小柴一良さん)「言葉を話せないから、やっていることは一日中タバコ吸うか、たぶん酒も飲んでいた」「いままでの職歴や生活とかで、この人は絶対、水俣病で間違いないと思っていた」
当時、水俣市から出水市に活動の範囲を広げた小柴さんは、より光の当てられていない出水市の現状を目にしました。
(小柴一良さん)「水俣ではメディアも騒ぐし、出水の人は忘れられている。ほとんど。そういう意味では、かわいそうというか、画にはできない悲惨があった」
小柴さんが出水市で知り合った人の多くはすでに亡くなりました。小柴さんがいまも交流するのは、母親の体内でメチル水銀による被害をうけた胎児性水俣病の患者たちです。水俣市で暮らす松永幸一郎さん(60)もその1人です。
(小柴一良さん)「かっこいいよな」
写真は14年前、自転車で通勤する松永さんを小柴さんが撮影しました。しかし松永さんはこの年から足の痛みがひどくなり、いまは車いす生活を余儀なくされています。
(胎児性患者 松永幸一郎さん)「これ以上悪くならないと思っていたが、蓋を開けたら車いすになった」「足を奪ったチッソに対して、今でも憎い。自分の足を返せ。そう言いたい気持ちがある」
鹿児島大学大学院で天文学を研究している中川亜紀治さんです。共通教育の授業で水俣病を学生に教えていて、読書会も主催してきました。
(鹿児島大学大学院・助教 中川亜紀治さん)「知識としては、本を読めば(水俣病を)知ってはいる。でも苦しさは分からない。熊本と鹿児島はすぐ行ったり来たりできるし、一度身近にお話させてもらうのが、私にとっての望みでした」
公式確認から67年が経った今も、国の特別措置法の救済から漏れた人たちが国などに賠償を求める裁判が各地で続くなど、水俣病を巡る問題は続いています。
来年3月に判決が言い渡される熊本訴訟では、原告1405人のうち半数以上が鹿児島の人たちです。しかし、中川さんは鹿児島での関心が高くはないと感じていることもシンポジウムを開催した動機の一つだったと言います。
(鹿児島大学大学院・助教 中川亜紀治さん)「鹿児島県から見ていると、熊本の出来事であるという認識が強い。この真ん中に魚がたくさんいれば、採りに来る人たちは四方八方から来る」「当然、水俣市の人だけが有機水銀に侵されるなんていうことはありえない。地図を見れば一目瞭然。鹿児島の問題でもある」
(鹿児島大学大学院・助教 中川亜紀治さん)「確実に鹿児島県でも起きていることなので、よそ事の意識になっていることが不自然。もう少し認知度が上がることがより自然」
(鹿児島大学2年)「熊本でなくて出水市であった話と聞いて非常に驚いた。(水俣病の)認知度が低いので、患者に悪影響が出ることなく広がっていくべき」
いまも続く水俣病の問題。そのすべてを写真で表現することは簡単ではありませんが、小柴さんは活動を続けていきます。
(小柴一良さん)「頭が痛いとか、こむら返りは写真では出てこない。そういう方が大事だと思う。劇症型ではなく。それを写真で表現するのは不可能」「だから、水俣を伝えていくのは、写真、絵画、文学、芝居すべてを網羅したものを、水俣に行けば水俣のことが分かる施設をつくるのが理想。写真にはこだわっていない」