MBCラジオ

「#105 雨と下駄」風の歳時記

 にわかに、本当に突然、下駄を履きたくなった。梅雨まっただ中、朝から降り続く雨を見るともなく見ていた時だ。雨を見ているうちに、なぜ、また、下駄が掃きたくなったのか、よくわからない。何とも脈絡のない話だ。でも、確かに下駄を履きたくなった。

 ひたすら家の外、野原でも河原でも、道端のクヌギ林でもいいのだが、真っ黒になって走り回っていた幼い頃。いきなり雨が降り始める。傘などもちろん、持っていない。折り畳み傘なんて見たこともなかった。だから一緒に遊んでいた子供たちも、ただ濡れるに任せている。前髪から雨のしずくが垂れ始めると、近くにある里芋の大きな葉っぱを折って、逆さまにかぶって傘替わりにした。たいした役には立たなかったが、その姿が濡れネズミの河童のようで、みんなで声を挙げて笑った。

 そんな時に、ふと気づくのは、足元の下駄だ。擦り減ってしまった下駄の鼻緒がびしょ濡れになり、足の指をギュっと締め付けている。グジュグジュと濡れた鼻緒の感触が、幼い日の雨の風景と重なって、何十年ぶりかに思い出される。先々のことも、明日のことでさえ、何も気にならなかった。振り返れば、夢の中のような無邪気な日々だった。

 中学、高校と進学し、やがて社会人になってからというもの、下駄という履物をすっかり忘れてしまっていた。とくにサラリーマンになってからは、毎日毎日、飽きるほど革靴で職場に通い続けている。休みの日はスニーカーか、夏場だったらサンダルを履くこともなくはないが、あの、硬くてカラコロと音のする下駄とはまるで足の裏、足の指の感触が違う。何といっても足の指に挟み込んだ鼻緒の優しさが好きだった。毎日走り回っているので、すぐに切れたが、その都度、母がすげかえてくれていた。古着をハサミで切り取り、丹念にヒモ状に撚り込んで下駄の真ん中の穴に通す。抜けないように、下駄をひっくり返して、穴の下でヒモを二重三重にくくって、はいできあがり。

 そういえば、石か何かを踏んで、突然、下駄が縦に真っ二つに割れることもあった。そんな時は父の出番だった。裏にU字型の金具を打ち付け、応急処理だ。履いてみると、下駄がわずかだが左右にペコペコと開いたり閉じたりして、そのたびに足の裏を挟んでしまう。痛いというほどではないものの、思い切って走ったりもできず、「なんで新しいのを買ってくれないのか」と子供心に少し惨めだった。

 そういえば、下駄は子供たちの天気占いの道具でもあった。「あぁした、天気になぁれ」と足を振り上げ、履いていた下駄の片方を勢いよく前へ飛ばす。落ちて表になったら、明日は晴れ。下駄が裏返しになって落ちたら雨。テルテル坊主もそうだけれど、科学的な根拠など何もないものほど、楽しくて、繰り返し、繰り返し飛ばしていた。

 いま、下駄を履いた子を見ることは全くと言っていいほど、ない。七五三のお宮参りなどで草履姿はたまに見かけるものの、少なくとも下駄ばきで遊んでいる子を見たことがない。遠くから聞こえてくるカランコロンという下駄の音の心地よさも、もう味わうことはないのだろう。

遥かセピア色の彼方を思い起こしているうちに、先ほどまで窓を濡らしていた雨も、いつしかやんでいる。

MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。

読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭

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