
放送日:2026年3月20日
毎年よ彼岸の入りに寒いのは
正岡子規の俳句だ。この句の前書きには「母の詞(ことば)、自ずから句となりて」とある。以下は勝手な想像だが、子規が「彼岸だというのに、ずいぶん寒いなぁ」とブツブツ言っている。それを傍で聞いていた母親がつぶやくように「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」と返したのだろう。その母の何気ない言葉が自然に五七五の俳句になったという訳だ。
母と息子の何気ない会話。その中から、後々語り継がれる句が生まれたというのも、もちろん、なかなか面白いけれど、この句は、「そう言われてみれば、そうだなぁ」という、ふだん、肌感覚で感じていることを、見事に言葉のピンで止めているところにありそうだ。これ、簡単そうで、難しいんだよね。
例えば、与謝蕪村の「春の海 ひねもすのたり のたりかな」
のどかでうららかな春の日差しを受けながら、眠るようにゆったりと揺れている海の風景を見たことのある人は多いだろう。その景色を「のたりのたり」の一言で見事に実感に添わせている。誰でも一度は見たことのある風景でいえば、同じ蕪村の「菜の花や 月は東に 日は西に」もそうだね。言葉の持つ力に驚くばかりだ。俳句をたしなむ訳ではないけれど、とてもかなわない。
さて、その毎年のように寒いお彼岸の話だが、今日、春分の日は彼岸の中日。昼と夜の長さがほぼ同じで、太陽は真東から上り、真西に沈む。秋の秋分の日も同じだが、お彼岸に、皆さん、先祖の供養をし、お墓に参るのは、太陽が真西に沈むため。沈む太陽に手を合わせ、遙か西の彼方の極楽浄土に思いをはせたのが始まりだいう。ものの本にはそう書いてある。読んでいて、「そうか、お彼岸は夕日を拝む日なんだ」と知り、ふと思い出したのが、串木野の民謡「串木野さのさ」だ。この歌は三番まであるが、その最後の歌詞は「朝日を拝む人あれど、夕日を拝む人はない サノサ」で締めくくられている。解釈すれば、行け行けドンドン、朝日のように絶好調で上り調子の人にはみんななびくけれど、いったん落ち目になってしまえば、潮が引くようにみんな散って行ってしまう。そんな、寂しいこの世の習いが歌われている。この歌、一番、二番は港町の男と女の別れの切なさを、哀調を帯びたメロディーで歌い上げていて、心に染みるいい民謡だ。
春分の日の当日だったかどうか覚えていないが、この時期になると、母がぼた餅を作ってくれていた。前の日の夕方、大きな鍋に小豆と水を入れ始めると、「おおぅ…」と声を挙げるほどうれしかった。一晩、水に寝かせたあとに、翌日はコトコトと煮続ける。餡子が出来上がると、熱いのも構わず、母にねだって、鍋に指を突っ込んでいた。
ところで、ぼた餅は春の彼岸の、おはぎは秋の彼岸のお供えもの。春に咲く牡丹の花、秋に咲く萩の花にあやかっていて、同じものだが、呼び方が違う。
合わせていうと、ただ単に「彼岸」といえば春の季語。秋の彼岸は「秋彼岸」が季語として使われる。なぜなのか、理由はよく知らない。
MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。
読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭









