
放送日:2026年3月27日
待ちきれぬように、乱れるように、競うように桜が咲き始めた。我が家の裏山でも、数十本のソメイヨシノが蕾をほころばせ、ふだんはシンとして人影のない散歩道にも親子や夫婦のそぞろ歩きする姿が目立つ。誘われるように登ってみると、桜はまだ三分咲き。春の穏やかな日差しを浴びながら、枝を見上げていると、これから後に続こうとしている蕾たちが内側から無言のエネルギーを発散させている。咲いた桜の花もいいけれど、これから、まさに咲こうとしている蕾たちの姿もいい。春の気を振り撒いているのは、むしろ蕾の方だな、と思う。
「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」
これは古今和歌集に収録されている、よく知られた在原業平の歌だ。「もし世の中にまったく桜がなかったなら、桜の花が咲くのを待ち望んだり、散っていくことを悲しんだりすることもなく、春の心はもっとのどかだっただろうに」といった意味で、じゃ、桜がなかった方が良かったのかと言っているかといえば、そうではない。これほどに心を揺らし、震わせる桜の花の悩ましいほどの魅力を歌い込んでいるんだね。いわゆる逆説的な表現。
確かに桜の花を見つめていると、その向こうの霞の立ち込める空とあいまって、言葉には表現できない想いのあれこれが立ち上がってくる。花や蕾から降って来る桜の樹の精というかスピリットというか、そんなものが脳内のドーパミンを分泌させるのか、妙に元気をもらったり、物狂おしい気分にさせられたりする。
子どもの頃の山遊び、オジサンたちが酔っ払い、オバサンたちが茣蓙(ござ)の上で笑い転げていた故郷の村の花見、駆け出しのサラリーマン時代に泥酔した上司が花の下でゲーゲーと吐き、同僚と家まで連れ帰った記憶、彼女と満開の下を歩きながら、とうとう最後まで手を握れなかった情けなさ…。必ずしもポジティブなドーパミン効果ばかりではないが、人生の折々の印象的な思い出は桜の花の映像と重なっている。そういえば、自宅の裏の八重桜の小さな枝を折って、入院中だった父の枕元の花瓶に差したこともあったな。その1週間後、病院の中庭のソメイヨシノがちょうど満開になるのを待つかのように父はこの世を去った。
「花の雲 鐘は上野か浅草か」
これは松尾芭蕉の句。当時44歳の芭蕉が住んでいた隅田川沿いの庵でふと耳にした「鐘の音」を、あれは上野の寛永寺、それとも浅草の浅草寺の鐘の音だろうか、と詠んだもの。芭蕉は花に浮かれた酔っ払いの花見風景に抵抗感を示していたらしいけれど、弟子たちの手紙のやり取りでは「先生は瓢箪(ひょうたん)の底を叩き、野の花のタンポポを酒の肴にし、酔っぱらってタヌキにも負けないほど腹鼓を打っていた」とあるから、ボクたちと同じように酒の宴も嫌いじゃなかったようだ。なんだか、ほっとする。
「花の雲 鐘は上野か浅草か」
「花の雲」とは、咲いた桜の上の空に浮かぶ雲ではない。桜木が立ち並んだ、満開の桜のかたまりを少し遠くから眺めるとまるで雲のように見える。その柔らかで穏やかな春の風景を一言で表す「花の雲」。この季節の素敵な季語のひとつだ。
MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。
読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭










