「東日本大震災で体験したこと・あってよかったもの」
きょうは、趣向を変えて、まもなく9年を迎える、東日本大震災についてお話します。
宮城県出身者としてこれまで3月11日が近づいてくると、
「震災で大切な家族を亡くした高校時代の友人に聞いたこと」など命を守ることの大切さをお話してきました。
私が住んでいたのは、沿岸部ではなかったので津波の被害は幸いなく、
大切な家族や故郷を無くしたわけでもありませんでした。
しかし被災し避難所での生活は過酷で、先の見えない不安に押しつぶされそうでした。
きょうは私の体験したこと、そしてあのときに備えておけばよかったことお話しします。
9年前の3月11日、春から東京の大学へ入学することが決まっていた春休みでした。
その日は母と愛犬と一緒に近くのホームセンターに出かけていました。午後2時46分、マンションに着き、
建物に入ろうとしたところで小さな揺れを感じました。
地震発生時はマンションなどの高い建物から物が落ちてくることがあると聞いたことがあったので、
すぐに建物から離れ、広い駐車場まで行きましたが、
徐々に揺れが強くなり立っていられず車に掴まりながら揺れが収まるのを待っていました。
震度6強の大きな揺れが3分近く続き、近くに立っていた街灯が大きく揺れていて倒れてくるのではないか、
死ぬのではないかと不安に思いながら耐えていました。
その後、マンションからたくさんの人が出てきて、
「緊急地震速報より早く大きな揺れが来た」「大きな家具や棚から食器が飛んできた」などの話を聞きました。
「食べ物がなくなるのでは」と思いコンビニへ、
停電でレジは使えませんでしたが、電卓を使って商品を売ってもらえました。
多くの人がやってきてすぐに商品はなくなりました。
家の中も心配だったので見に行きました。頑丈な本棚は想像を超える壊れ方でバラバラになっており、
電気温水器も壁を突き破ったり、あとでわかったのですが、
配水管が水漏れを起こすような形で壊れていました。ガスはなかったので、家のブレイカーを落とし、
水の元栓を締め、余震も続いていたため、家具の壊れた家にいることが不安で車に避難しました。
働いている父と学校にいる弟が心配でしたが、携帯電話も固定電話も繋がりませんでした。
夕方は車の窓の外は吹雪で真っ白でした。ガソリンの残りも心配だったので
震えながら唯一の情報源であるラジオを聴きながら過ごしました。
アルミシートなど暑さ寒さ対策も必要ですね。
弟は当時中学1年生で、ホームルーム中でした。クラスは大きな揺れにパニックになり泣き始める子がいっぱいいたようです。
地震が収まったらすぐに校庭に集められ、迎えに来た家族と帰っていきました。
帰り道は国道4号線など大きな道路でも、信号はついていないですし、渋滞も発生、
あちこち陥没し、古い家はつぶれていました。全面ガラス張りの美容室は、
そのガラスが全て粉々になって地面に散乱していました。
下にいた人は間違いなく死んでいるような状態で、ガラスの怖さを感じました。
2011年3月11日の夜は今まで感じたことのない不安に襲われました。
車のラジオからは「若林区荒浜では200~300人の遺体が見つかりました」というニュースが流れていました。
30年以上前の宮城県沖地震でも津波は来なかったですし、内陸部は被害がなかったので、
津波によって多くの人の命が失われたとは想像できませんでした。電話の繋がらなかった父とは夜遅く連絡がつきました。
携帯電話の充電はこの日に切れました。のちに車で充電ができる充電器が役に立ちました。
手回しやソーラー充電の携帯も充電もできるラジオがあればいいですね。
普段父は電車通勤ですが電車が動いていなかったので、次の日歩いて帰ってきました。
そこから余震に怯えながら避難所と(犬もいたので)車で過ごしました。電気も水道も止まり、
給水車が来たら空のペットボトルを持って給水車に水を汲みに行き、7階まで重いペットボトルを運び、
近所の人と冷蔵庫にあったものを持ち寄って誰でも食べられる炊き出しもしました。スーパーに並びましたが、
一人五点までの制限がありました。もちろん買えない人もたくさんいます。水(2.5リットル*3日分)や
食料(非常食)は家族の分準備が必要ですね。
ラジオとご近所さんの話、簡易掲示板の情報が全てでした。
被災者は情報難民なので自分の行動範囲外のことは1か月後に知りました。
上下水道が止まりトイレは流れなかったですし、お風呂にも入れない、歯も磨けなかったので、
当たり前の事が当たり前でなくなりました。水のいらないシャンプー 歯磨きシートや簡易トイレ、
マスク、ウェットティッシュなど衛生用品も必要です。夜はロウソクの明かりで、
カセットコンロで沸かしたお湯を使ってひとつのカップラーメンを家族4人で食べたこともありました。
それでも温かい食べ物は嬉しかったです。このようなことが10日ほど続きました。
ここまでお話してきて、やはり停電してもどこにいても情報が得られるラジオ、
水や食料品、懐中電灯など明かりになるもの、家族との連絡手段や集合場所などの決まり事は大切だと感じました。
自然災害が起こるたびに「備える」ことや「命を守る」ことの大切さを伝える難しさを感じます。
まだ日常に戻っていない人もいます。鹿児島県も南海トラフ巨大地震や津波、
そして火山や大雨にも備えないといけません。このような話をするとつらい思いだけが残ってしまいますが、
ラジオをお聞きの皆さんには、ぜひ家族でお話しするきっかけにしていただきたいです。
また、何年たっても全国から避難所には支援物資が届いていました。
サツマイモなども鹿児島から届いていましたよ。
ボランティアも阪神淡路大震災のときに助けてもらったとのことで関西からの方が多かったです。
本当にありがとうございました。
きょうは9年前の東日本大震災で私の体験したこと、
そしてあのときに備えておけばよかったことお話ししました。