昨日から“いろは歌”を創った、島津日新斉の生い立ちをご紹介しています。
中国の元という国との間で政情不安定となった鎌倉幕府は、日本全国の守護職に“異国降伏の祈祷”、つまり「朝鮮が来たら反抗しなさい」と命じました。
また、西国(今の山口県から西、九州全土)の守護職や御家人などに警戒を命じます。
守護職とは、後の大名のこと。鎌倉時代の御家人は、将軍と直接、主従関係を結んだ武士のことです。
元の襲来に備え西国の守護職たちは、幕府の命令に従い、守備兵(国境を護る兵士)を、筑前(現在の福岡の箱崎)に配置。このときの防塁(土手)は、現在も残っています。
このときの島津の総指揮官は、本家の久経で、伊作からも次男の久長が参戦しています。
弘安四年五月に高麗の軍船が対馬(長崎)に、六月には元の本隊が高麗軍と合流し、日本を襲撃。しかしこのとき大風雨によって、元軍は壊滅。
この戦、ご存知の方も多いと思います。“弘安の役”と呼びます。
伊作家初代当主・久長から数え、七代目・犬安丸は若死にし、後継者がいませんでした。その為、老臣・ 鎌田尾張守 政年は鹿児島へ赴き、島津本家から養子として亀房丸を迎え、若死にした犬安丸の妹と結婚させ、伊作家の血が途切れない様、配慮。
亀房丸は、これを機に、久逸と名を変え、式部大輔河内守と呼ばれました。
この久逸ですが、飫肥(現在の宮崎県日南市中央部)の新納 忠続と不和を生じ、負け戦となり、伊作へ帰ることとなります。
この久逸には善久と呼ぶ男の子がいて、飫肥で戦った新納 忠続の弟・是久の女・常磐を娶りますが、生まれてくるのは女の子ばかり。善久、天を仰ぎます。
この続きは、また明日。毎日ごわんそ!