薩摩の教え、今週と来週は、「西郷南洲遺訓」を編纂した旧庄内藩にかかわりのある方々にお話を伺います。今週は、西郷と徳の交わりを結んだ庄内藩中老・菅実秀の玄孫、菅秀二さんです。
二人が初めて会ったのは、明治4年。西郷が44歳、菅が42歳の時だったそうです。
(菅さん)「二人の仲は(文章で残っているんですけど)『一見して果たしてこの人なり、交情日々に厚く、実秀の西郷を敬すること兄のごとく、西郷の実秀を親しむこと弟のごとし。』というような言葉で二人の関係を称している。
(その時)西郷さんは廃藩置県のために上京されていたが、そういった日本の今後の進むべき道、あるいは地域(鹿児島や庄内の鶴岡)の進むべき道等を論じ合ったと言われております。」
この前の年、明治3年には庄内藩主以下 藩士70数名が鹿児島を訪れ、4ヶ月ほど滞在しています。菅実秀自身が、ほかの藩士たち数名と、鹿児島に西郷を訪ねたのは明治8年のことでした。
(菅さん)「鶴岡から東京までは歩きですよね。そして東京の汐留から横浜の桜木町まで、彼らは生まれて初めて汽車に乗って喜んでおります。速きこと鳥の如く、1時間で横浜に着いたというような日誌が残っている。
それ以降、東海道を大阪まで歩き。そして大阪から神戸まではまた、その当時汽車が走っていた。そして神戸からは船で長崎まで経由熊本まで行って、熊本で上陸。そこから三太郎峠を越えて、鹿児島に入ったのが5月17日の夜。二十日間くらいかけて移動している。」
(岩崎)そこまでして学びに行こうというのは、やはり西郷さんの寛大な措置があったから?
(菅さん)「措置があったからと、明治4年の面会の時に今後の日本や地域に関して論じ合ったことを、庄内でも実行に移して、成功を見ていたわけで、その(西郷への)報告も兼ねて行っておられたわけです」
遠く離れた庄内と鹿児島が、そんな風につながっていたんだなぁ・・・と感じますね。
文明開化が進んでいく様子もつたわってきました。時代は動いていたんですね。
明日もどうぞお楽しみに。