今週は、加治木島津家 第13代当主であり、加治木・精矛神社の宮司を務める島津義秀さんに、郷中教育の成り立ちについてお話しいただいています。
昨日は、徳川による治世が始まってなお、薩摩では常に戦いに備え、城ならぬ人づくり、人材養成の手段として郷中教育が奨励され、その中から西郷、大久保という人材が育ったお話を伺いました。
(島津さん)二才たちは、結婚するとこのシステムからは出ます。OBになります。長才といいます。
長才は、郷中教育の現場に対しては、一切口を出しません。パトロンにはなります。経済的援助とか物的支援というのはする。
長才に子どもが生まれて、ある程度の年代、小学生くらいになったら、その郷中教育の現場に入れてあげる。それが何回も回って行くというのが、江戸時代の郷中教育の姿だったわけです。
これが、今の鹿児島市内、旧鹿児島城下。下荒田地区、上荒田地区中心に20数カ所の現場があったと。郡部でも、例えば姶良、加治木、出水、帖佐といったところにそういうものがあって。拠点となるものは外の城と書いて外城と言いますけれども、薩摩藩は江戸時代に、この外城制度というものを作っていました。
薩摩藩領土内に百数十か所の外城をまず構えさせて、それぞれの外城の下に郷というものを組織し、その郷の中に自治的な、今でいう子ども会のようなものを育てていって、それを競わせてやっていくという集団ができていったわけです。これが江戸時代の郷中教育の姿です。
私たちの郷土には、誇るべき教育の歴史があったのだと島津さんは言われます。
それでは、今週はこの辺で。