今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介しています。
先週からお伝えしたとおり、明治41年、イギリスの軍人 パウエル卿が、イギリスの少年達の心身を健全に育成する為、創ったとされる組織「ボーイスカウト」。創設のもとになったのは、薩摩の郷中教育であったという説があります。
遠くはなれた薩摩とイギリス。その接点は、薩英戦争にありました。
今週からは、その後の経緯をご紹介しています。
薩英戦争をキッカケに薩摩とイギリスは、急速に友好関係を深めていきます。
慶応2年7月 イギリス公使 パークスは、鹿児島を訪問。下にもおかない「もてなし」を受けます。
薩摩からイギリスへの最高のプレゼントは「錨」でした。
というのも、薩英戦争の時、イギリス艦隊のうち、1隻は錨を上げる暇もなく錦江湾を出ていきました。
錨は、軍艦のシンボルですから、それを置いて逃亡するのは、最大の恥辱。
それを返却してもらえたのは「稀に見る」出来事として世界中から賞賛された。
と『薩藩海軍史』は、紹介しています。
このように友好関係を深めた薩摩とイギリスですが、その時、薩摩を訪問したイギリス公使が、のちに「ボーイスカウト」を組織。
1911年 明治44年。イギリスの国王 ジョージ五世の戴冠式に出席した乃木希典陸軍大将。
ロンドンのハイド・パーク広場で「ボーイスカウト」の訓練を見学した時、「この様な良い制度をいかにして創られたのか?」とパウエル卿に訊ねると、
パウエルは、「この組織は、薩摩の郷中教育のシステムを調べ、良い点を斟酌して組織した」と答えたということです。
鹿児島大学の名誉教授も務めた北川鉄三さんは、著書『薩摩の郷中教育』の中で、「この伝承は、「薩摩の郷中教育」が世界的に評価された具体例であった」と記しています。
では、今日も、鹿児島のこの言葉でお別れしましょう。また明日。毎日ごわんそ!