春田川水害1年 住民も知らない河川改修の歴史
去年7月、薩摩川内市の市街地が浸水した川内川の支流・春田川の氾濫です。
排水ポンプの操作が出遅れたと国が責任を認めた一方で、現場周辺には住民も知らない水害への歴史的リスクがありました。
去年7月9日深夜から10日にかけて県北部で起きた豪雨災害。死者などはなかったものの甚大な被害となったのが薩摩川内市の中心市街地24ヘクタール・142棟が浸水した春田川の氾濫です。浸水の高さは1メートルにも達しました。
あれから1年、氾濫が発生した場所に住む伊東和志さん(66)。かさ上げしていたため、自宅は床下浸水にとどまりました。
(伊東和志さん)「午前5時半ぐらい(に気づいた)。雨がすごかった」
妻と2人でただちに避難した伊東さん。川の氾濫には以前から注意していたといいます。
(伊東和志さん)「小さな川ほど怖いことはない。どこで異変に気づいてすぐに逃げられるか、常に考えておかないといけない」
春田川と川内川の合流点にある向田排水機場です。国の川内川河川事務所が管理し、市が委託を受け操作していました。今回の水害を巡ってはここにあるポンプ2基のうち1基が当初、運転できない状態になっていたことが問題視されました。そして。
(川内川河川事務所 杉町英明所長)「国家賠償法に基づき損害賠償いたします」
ことし3月、国は責任を認め損害賠償することを表明しました。一連の検証で、実際にポンプ操作が行われた1時間半まえには操作要領上、運転を始めなければならない水位に達していたことが明らかになりました。その時間に国や市が操作員を臨場させ作業を始めさせていれば、氾濫は大幅に低減されたとみられています。
一方、委託され実際に操作を請け負っていた薩摩川内市の田中良二市長は。
(薩摩川内市 田中良二市長)「受託した責任はある」
水害を受け、これまでに春田川には県が監視カメラを設置し、水位を確認できるようになったほか、急な大雨にもただちに操作員がポンプ場に向かい運転が行えるよう、国と市が連絡体制を見直しました。
さらに市はこの春の組織改編で初めて「河川」の文字が入った道路河川課を設置。また国から出向した九州初となる「流域治水」担当次長のポストも設けました。
(薩摩川内市建設部 久保信治部長)「突然の雨に対応できるような対応策をとることは、我々がやらなければいけない。反省点と考えている」
去年の水害を教訓に対応が進んだ春田川。しかし80年前に行われた、いまやほぼ忘れられている河川改修の歴史は、この川が持つ潜在的なリスクを浮き彫りにします。
その記憶を残すモニュメントが川内駅前に残されています。市街地南部を流れる平佐川がかつて駅前を横切って春田川に流れ込んでいたことを伝える、橋の欄干です。
度重なる洪水を受けて昭和6年(1931年)に国の直轄事業として行われた川内川の河川改修。昭和16年に支流の隈之城川が直線化され、昭和19年にその隈之城川に流路を変更するまで、平佐川は春田川にそそいでいました。
合流地点は今回、氾濫が発生した場所。かつて平の池・平池(ひらけ)と呼ばれ、戦前までは川内で雨が降ると最も早く浸水する場所として認識されていました。
(住民)
「知らない」
「初めて聞いた」
平池の地名は知らないものの、昭和20~30年代のようすを知る住民は。
(平田政男さん)「ところどころ川がせき止められたか、池みたいなものがあちらこちらにあった」
地質学が専門の鹿児島大学・井村隆介准教授です。平池と呼ばれた周辺地域をMBCとともに歩きました。
(鹿児島大学 井村隆介准教授)「もともと地下水位が高くて、雨がたくさん降ったときには川があふれなくても、周囲の側溝から水が上がってくるようなエリア。地形は何千年何万年もかけてできたもの。そう簡単には、人の力で変えたからといって、全部うまくいくわけではない」
薩摩川内市は、今後子どもたちの防災教育も含め地域の成り立ちを伝えていきたいと語ります。
(薩摩川内市建設部 久保信治部長)「春田川・平佐川・隈之城川の場所は、(河川改修後)戦災復興の区画整理で再編して大きく変わっている。かつてを知る人は少なくなっている。(土地の成り立ちを)子どもたちから伝えることが大事」
井村准教授は、住民や行政が地域の歴史を知り、自分自身のこととして災害に備えることが大切と訴えます。
(鹿児島大学 井村隆介准教授)「忘れなければ防げる。ふだんから、過去に学ぶということをやってくことが大事」