
放送日:2025年11月7日
「風立ちぬ いざ生きめやも」
太平洋戦争の始まる前、もう90年近くも前に発表された堀辰雄の小説「風立ちぬ」に出てくる言葉だ。ボクが文庫本で読んだのは、今よりうんと多感だった高校生の頃。小説の主人公の「私」は、婚約者である節子とともに高原の結核療養所で暮らし始める。ネタ明かしになってしまうので、詳しいあらすじは避けるが、二人は愛し合いながら静かな日々を過ごす。しかし、節子の結核の病状は悪化の一途をたどり、「私」は彼女の死と向き合いながら日々を送ることになる。小説は、彼女が亡くなった後、雪の降る山小屋で「私」が節子との日々を回想する場面で締めくくられるが、この小説の冒頭近くでフランスのポール・ヴァレリーの詩の一節、「風立ちぬ いざ生きめやも」が登場する。
「風立ちぬ」といえば、ボクより少し年下の世代は松田聖子を思い出すかもしれない。「♫風立ちぬ いまは秋 今日から私は 心の旅人」の方が、きっと馴染みがあるだろう。もっと若い世代はスタジオ・ジブリ、宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」だろうか。戦前のゼロ戦の誕生を背景に、飛行機の設計に情熱を注いだ青年技師・堀越二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会いと別れを交えながら展開する物語だ。映画のポスターには「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」と記されていて、このアニメの試写会の際、宮崎監督は「恥ずかしいんですけど、自分の作った映画で泣いたのは初めてです」と語ったと言われている。
「風立ちぬ いざ生きめやも」
ところで、この言葉、「風が吹いてきた。さぁ、生きよう」あるいは「さぁ、生きるぞ」という強い意志を示しているのだとずっと思っていた。風が吹き始め、それに煽られ、押されるように、前を向いて生きようとすると解釈した方がスッキリするし…。
ところが、どうも、これは堀辰雄の誤訳、訳し間違いのようなのだ。古典文法に疎いのでわからなかったが、「生きめやも」は強い逆説、反語的な表現で、現代風にいうと「生きようか、いや、生きるなどしない」、つまり、「風が吹き始めた。さぁ、死のう」になってしまうという。ポール・ヴァレリーのフランス語の詩では「風が吹き始めた、さぁ、生きなきゃ」となっており、これは明らかな誤訳。あぁ、日本語って難しいなと思う。
訳し間違いはそれとして、でも、堀辰雄が伝えたかったのは、風が吹き始めた今こそ、さぁ、生きるぞという強い想いだったのだから、そのまま、受け入れたらいいのだろう。
「風が立つ」、あるいは「風立ちぬ」という言葉は秋の季語に入れている歳時記が多い。なぜ、秋の季語になるのか、どうもピンと来ないのだが、夏から秋への季節の移りを、吹き始めた風に託してのことなのか。
〇 風立ちぬ 身はつくづくと 月の秋・・・という松尾芭蕉の句もあるが、この句には「月の秋」と詠まれており、「風立ちぬ」をわざわざ秋の季語とする意味もない。正直いうと、「風立ちぬ」は厳しい冬に向けて、さぁ、生きようとする、そんな冬の初めの引き締まった気分に似合いそうな気もするのだ。
今日、11月7日は立冬。 暦の上では冬に入った。
MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。
読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭










