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日本の偉人「夏目漱石」

今月も先月に引き続き、夏目漱石です。

東京帝国大学・現東京大学、英文科卒業後で有名なのが、松山の愛媛県尋常中学校の英語教師です。

松山は正岡子規の故郷でもあり、丁度、静養のために帰省していた子規とともに俳句に精進します。

漱石の俳句には、心優しい人柄が出たものや、思わず笑ってしまうような俳句も多いです。

熊本県の第五高等学校講師として赴任します。

そして1900年、33歳の時、文部省から英文学研究のため英国留学を命じられます。

初めの頃は勤勉に励んでいたのですが、英文学研究に違和感を感じ始め、神経衰弱に陥り、色々あって帰国を命じられます。

帰国後は子規の遺志を継いで「ホトトギス」を経営していた高浜虚子が、漱石に小説を書くように勧めました。

そこで書いたのが『吾輩は猫である』。時に漱石、38歳でした。

その後『倫敦塔』『坊ちゃん』とたて続けに作品を発表し、作家としての地位を確立していきます。

そして遂に40歳の時、一切の教職を辞めて、朝日新聞社から招かれて入社します。招いたのは朝日新聞で主筆を務めていた池辺三山(さんざん)です。

各種新聞の主筆を務めた新聞業界では“知る人ぞ知る”という人で、日清・日露戦争では健筆(けんぴつ)をふるい、また紙面を刷新し、夏目漱石らの名作を多数掲載した人です。

そして漱石の初めての新聞小説が『虞美人草』です。出世が約束されていた帝国大学教授から(いち)新聞小説家」へ。

明治のエリート街道からの転身は話題を呼びました。

この小説は、虚栄の女 藤尾を中心に、利己と道義の相克を描いた絢爛たる文体と整然とした構成で大評判となりました。

加えて、漱石の家には毎週木曜日に若い文学者が集まり、多くの著名な作家を生み出しました。

43歳の時『門』の執筆中に胃潰瘍を患い、この病気は最後まで漱石を苦しめました。

では最後に、漱石の漱石足る出来事をお届けしましょう。

44歳のとき、文部省から「博士号(はくしごう)授与」の通達がありましたが、漱石はこれを辞退したため、話題となりました。

権威主義的な政府に激しい怒りを感じていた漱石の反抗の現われで、名誉よりも作家であることを望んだ一生でした。

【昴インフォメーション】

11月29日(土)は鹿児島の三高模試、宮崎の理数文情模試です。

トップ公立高校をめざす中学1年生と中学2年生の皆さん、たくさんのライバルが競い合います。

また11月30日(日)は小学生の学力判定テストです。

今の自分の力を試してみませんか。どちらも無料で受験でき、優秀者にはビッグな特典もあります。ぜひチャレンジしましょう。

詳しくは昴のホームページをご覧ください。

今週の放送はこちらから!

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