
放送日:2025年9月5日
蕎麦屋のカウンターで買った手拭いを部屋の壁に貼り付けている。「親父の小言」と題して、40ほどの格言というのだろうか、昔のオヤジならさも言いそうな言葉がずらりと書きつけてある。
いわく「朝はきげん良くしろ」「人には腹を立てるな」「人には施せ」「人には馬鹿にされていろ」と、これはまるで、仏様のような欲の無さ!と思うと、一方で「怪我と災いは恥と思え」「大事は覚悟しておけ」「病と禍いは口から」と結構、うるさい。その中に、「子の言うことは八、九きくな」とある。子どもの言うことに耳を貸すな、と。「老いては子に従え」という言葉は耳にしたことがあるが、これはその逆だね。子供が幼い時ならいざ知らず、一人前の大人になった子供と年老いた親の関係では、どうなんだろう。
明治・大正時代の平均寿命は40歳前後。といっても乳幼児死亡率が高かったためで、実際に30歳代まで生き延びた人は50、60代あたりまでは元気に暮らしていたようだ。それでも、現在の寿命から比べると30年もの開きがある。この時代、小言を言っていた親父は概ね40歳代から50歳前後、その子供はせいぜい20歳代止まりだったはずだ。世間知も身についていない、「駆け出しの大人」だったのだから、そんな子供の言うことなんか「八、九聞かなくて」当たり前だったのだろう。
一世紀が過ぎて、日本人の平均寿命は世界トップクラス、人生100年時代といわれるまでになった。長く生きることが、本当に幸せなのかどうかはともかくとして、いまや親は100歳近く、子供も後期高齢者という親子も、世間には少なくない。国の予測によると、あと50年経つと、日本の人口は現在の1億2800万人から8700万人へ、65歳以上の高齢者の占める割合は23%から40%へと膨れ上がる。
去年、令和6年の特殊詐欺の全国被害総額は約718億円。SNSを使った投資話の詐欺や恋愛感情を抱かせてお金を騙し取るロマンス詐欺が増えているが、鹿児島県内では古典的な「オレオレ詐欺」が多くて半数以上を占める。「俺だよ、オレオレ」「母さん…元気?」「久しぶりだけど、覚えてるかな?」などと孫や子を装った電話がかかってくる。「交通事故を起こして示談金が要るんだよな」などと言って金銭を騙しとる対象のほとんどはお年寄りだ。「子の言うことは八、九きくな」という頑固親父だったら「自分のことは自分で始末しろ!」と一喝して電話を切るのだろうな、と思う。最近の親は老いも若きも、少々、子に甘すぎはしないか、と。
もう何十年も前、まだ蓄えがなかった頃、中古の車が欲しくて父に無心したことがある。「一年かけて返すからさ」と気楽に頼んだら、受話器の向こうから「おまえ、いつから情けない男になった。欲しけりゃ、自分で貯めて買え。買えなきゃ我慢しろ!」。すごい剣幕だった。すでに亡くなった戦前生まれのオヤジが、「親父の小言の手拭い」の向こうから見ている気がして、いっそ壁から外してしまおうと思うのだが、ついつい手が止まってしまう。
昭和の時代も頑固オヤジの姿も遥か彼方。猛暑と大雨にたたられた今年の夏が少しずつ遠ざかり、気がつけば、朝夕、秋の風が立ち始めてきた。
MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。
読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭










