薩摩の教え

郷中教育14

今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介していきます。

これまでもお伝えしているとおり、明治41年、イギリスの少年達の心身を健全に育成する為、創ったとされる組織「ボーイスカウト」。
創設のもとになったのは、薩摩の郷中教育であったという説があります。

遠くはなれた薩摩とイギリス。その接点は、薩英戦争にありました。そのキッカケとなったのは、横浜の生麦村で発生した「生麦事件なまむぎじけん」でした。


 

生麦事件の解決に首を横に振る薩摩に対し、業を煮やしたイギリスは、翌年6月、艦隊を山川沖に到達させました。夜分、谷山・七ツ島付近に碇泊。翌日、前之浜沖およそ1キロ沖にいかりを入れました。

 

島津久光は、使いを艦隊の旗艦きかん「ユーリアラス」に派遣。「何をしにやってきたのか?」を訊ねさせます。イギリス公使 ニールは、先に提出した『遺族扶助料いぞくふじょりょう負傷者慰謝料ふしょうしゃいしゃりょうおよび下手人げしゅにん引渡し』を求めます。

 

この要求に対し、薩摩は、『藩王 久光は、霧島温泉に出掛けておられるので、5・6日先でないと回答できない』と答えます。
ニール公使は『これ以上は待てない。30時間以内に答えを出せ。それが出来ない場合は、攻撃にかかる』と強硬きょうこうな態度を示します。

 

翌日、薩摩は再びイギリス艦隊を訪ね、「何度も艦隊を訪問するのは、すこぶる面倒なので、あなた方が上陸して欲しい、御着屋おつきやで相談しよう」ともちかけます。
この御着屋おつきやとは、現在の鹿児島市中町の「鹿児島中央警察署 御着屋交番おつきやこうばん」のある所で、かつては迎賓館があったといいます。また、この御着屋おつきやは、そう俊寛しゅんかんが島流しされ場所でもあり、今も「俊寛しゅんかんの記念碑」が残っています。

 

7月2日 イギリス艦隊は、重冨沖に停泊中の天祐丸てんゆうまるなど3隻を分捕ぶんどります。
この知らせは、現在の鹿児島市常盤ときわにあった薩摩の本陣 千眼寺せんげんじへ報告され、いよいよ、戦いの火蓋が切って落とされます。

 

詳しくは、また明日。では、毎日めにっごわんそ!

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