今週も薩摩の青少年教育「郷中教育」についてご紹介していきます。
これまでもお伝えしているとおり、明治41年、イギリスの少年達の心身を健全に育成する為、創ったとされる組織「ボーイスカウト」。
創設のもとになったのは、薩摩の郷中教育であったという説があります。
遠くはなれた薩摩とイギリス。その接点は、薩英戦争にありました。そのキッカケとなったのは、横浜の生麦村で発生した「生麦事件」でした。
生麦事件の解決に首を横に振る薩摩に対し、業を煮やしたイギリスは、翌年6月、艦隊を山川沖に到達させました。夜分、谷山・七ツ島付近に碇泊。翌日、前之浜沖およそ1キロ沖に碇を入れました。
島津久光は、使いを艦隊の旗艦「ユーリアラス」に派遣。「何をしにやってきたのか?」を訊ねさせます。イギリス公使 ニールは、先に提出した『遺族扶助料・負傷者慰謝料および下手人引渡し』を求めます。
この要求に対し、薩摩は、『藩王 久光は、霧島温泉に出掛けておられるので、5・6日先でないと回答できない』と答えます。
ニール公使は『これ以上は待てない。30時間以内に答えを出せ。それが出来ない場合は、攻撃にかかる』と強硬な態度を示します。
翌日、薩摩は再びイギリス艦隊を訪ね、「何度も艦隊を訪問するのは、頗る面倒なので、あなた方が上陸して欲しい、御着屋で相談しよう」ともちかけます。
この御着屋とは、現在の鹿児島市中町の「鹿児島中央警察署 御着屋交番」のある所で、かつては迎賓館があったといいます。また、この御着屋は、僧・俊寛が島流しされ場所でもあり、今も「俊寛の記念碑」が残っています。
7月2日 イギリス艦隊は、重冨沖に停泊中の天祐丸など3隻を分捕ります。
この知らせは、現在の鹿児島市常盤にあった薩摩の本陣 千眼寺へ報告され、いよいよ、戦いの火蓋が切って落とされます。
詳しくは、また明日。では、毎日ごわんそ!