熊本地震から5年 語り部が伝える教訓

家屋の倒壊などで16人が犠牲となった南阿蘇村で、語り部として活動する若者が語る教訓とは?緒方記者の取材です。


2016年4月14日にマグニチュード6.5の地震が発生し、熊本で震度7を観測。2日後の16日にもマグニチュード7.3の地震が発生し、再び震度7が観測されました。
直接の死者は50人、関連死を含めた死者は熊本・大分で276人に上っています。

熊本市から車でおよそ1時間の南阿蘇村です。
16日の2回目の地震で震度6強を観測。16人が犠牲になりました。

(緒方記者)「南阿蘇村立野地区です。大規模な土砂崩れが発生した場所では、今も山肌がむき出し。この場所にかかっていた阿蘇大橋は崩落し、今も橋げたの一部がそのまま残されている」

阿蘇大橋の崩落により、付近を車で走っていた大学生の大和晃さんが亡くなりました。

土砂に飲み込まれ、一部が不通となっていた国道とJR豊肥本線も去年夏以降に再開。崩落した阿蘇大橋に替わる新しい橋も先月、開通。この5年で、インフラの復興は進みました。


(林風笑さん)「すごく身近で人が亡くなってて、たまたまいた場所が違っただけで私でもおかしくなかったと思ってる。自分はなんで生き残ってこの子たちは犠牲にならないといけなかったんだろうって思っていた。」

南阿蘇村で赤牛を育てている林風笑さん(24)。

震災当時は大学2年生で、耐震工事が行われておらず大きな被害が出た東海大学阿蘇キャンパスに通っていました。

(林さん)「日常、今まで普通にここで生活してたわけだからその場所がこうなるのはまさかなって」

地震でむき出しとなった断層も残る学校は、去年から震災を語り継ぐ「震災ミュージアム」として公開が始まりました。

かつておよそ800人の学生が暮らし、「学生村」とも呼ばれた黒川地区では地震で多くの建物が倒壊し、3人の学生が犠牲となりました。そのうち1人が地震発生時に林さんがいたアパートの住人でした。

(林さん)「1階がつぶれちゃって。助けてくださいとか、怖いっていう声も聞こえる。埋まってしまっている子もいたから出せる子をみんなで救出したりとか。」

地震後、自分の経験を伝える語り部としての活動を始めた林さん。自分がいたアパートで亡くなった学生の遺族からかけられた言葉が忘れられないといいます。

(林さん)「『息子と同じような経験をして怖かっただろうに話してくれてありがとう』と言われた。私はすごく後ろめたかったという話もしたが、『自分の息子がどう亡くなったか、真実を知りたかった』そう言ってもらえて(語り部を)やってていいんだなと思った」

林さんは地震の2年後に防災士の資格を取得。自宅には倒れやすい家具は置かず、玄関に防災バッグを準備し、車に水や携帯トイレを積むなどの備えをしています。

「今、地震が起きたらどうするか」災害を自分のこととして考え、備えてほしいと訴え続けています。

(林さん)「かわいそうという目で見られたり、“大変な思いをしたのに頑張っている子”という見方をされると、私の中では意味がない。本当に自分の身に降りかかってもおかしくないと思いながら聞いてもらえるように、自分の大切な人、亡くなってほしくない人に伝えていきたい」


竹原伊都子さんは、この地で30年以上、下宿を営み震災当時は23人の学生がいました。

しかし、地震で下宿の隣にあった自宅は全壊。今は下宿する学生はいなくなり、作業員に食事の提供などをしています。

(竹原伊都子さん)「あんなに突然子どもたちがいなくなると思ってなかったし、熊本にこんなに大きな地震がくるとはほんとに思ってなかったんですよ。それが私たちの怠慢ですよね。」

竹原さんは1年間の講習を受けて村の防災教育ガイドに認定され、修学旅行で訪れる学生などに地震の経験を伝えています。

その竹原さんが語る教訓とは?

(竹原さん)「1番後悔しました、備えらしい備えをしてなかったので。“今までに経験したことのない雨の量だった”とか、“まさか熊本にこんな大きな地震がくるとは思わなかった”とか、そういう考えは捨てなければいけない」

発生から5年となった熊本地震。いつ、どんな形で起きるか分からない災害を自分のこととしてとらえ、平時からどう備えるべきなのか、私たちに問いかけています。

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