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「#73 湯豆腐」風の歳時記

「ジングルベル」や「真っ赤なお鼻のトナカイさんは」の音楽が街に流れ始めて、訳もなく急かされている気分になる。そうか、もう師走か。そういえば、まだ年賀状を買っていないし、来年の手帳もまだだ。時間の速度に体力も気分も追いつかない。

 ついでにスーパーマーケットに立ち寄ってみる。自動ドアを入ったら、いきなり鍋物フェアの特設売り場。白菜、水菜、春菊、ニラ、長ネギ、椎茸、シメジなどのお決まりの具材のそばに、あるはあるは、鍋の素というのか、鍋物スープというのか、その種類の多さに目を見張る。すき焼きや寄せ鍋、湯豆腐、ちり鍋やシャブシャブや水炊き、おでん、もつ鍋などは昔から馴染んだ定番だが、それに加えて、キムチ鍋、スンドゥプなどの韓国勢、豆板醤とコチュジャンで炒めた豚ひき肉を使った担々鍋、餃子鍋などの中国勢も参戦、あとはトマト鍋、カレー鍋、豆乳鍋、お相撲さんのちゃんこ鍋など、数え上げればキリがない。そのうち、ステーキから目玉焼き、コロッケからぬか漬けまで、何でもかんでも鍋に放り込みかねない勢いだ。

世界の食事の事情に通じているわけではないが日本人はおそらく、鍋物料理の最も好きな民族ではないか。なぜなのか、と考えてみる。まず、冬の季節がそこそこ寒い。アフリカの赤道直下の人たちは煮えたぎる鍋を囲みたくはないだろう。それに、日本列島の人々は木と紙の、つまり柱と板壁と障子、襖の暮らしを続けてきて、家の中でも隙間風が吹き込んでいた。

 そうした家の中心にあったのは囲炉裏だ。西洋は壁に取り付けられた暖炉だったが、この国では火が壁に燃え移らないように家の真ん中に燃える火が鎮座する必要があった。そこで薪を燃やし、それは暖房や明かり取りであると同時に、自在鉤からぶら下がる鍋を家族一同が囲む食事の場でもあったのだろう。幼い子たちには母親がよそってやり、一人前になればめいめいが取って食べる。「同じ釜の飯を食った仲」という言葉がある。同じ鍋をつつきあうことも、また、お互いの切っても切れない「つながり」を知らず知らずの間に育てる効果があったのかもしれない。鍋物を囲む時の何とも言えない「ほっこり感」はそんなところに根っこを持っているのだろうね。

 〇湯豆腐や いのちのはてのうすあかり  

明治から昭和にかけての小説家、劇作家の久保田万太郎の一句だ。最初の妻を自殺で亡くし、2度目の妻との結婚生活も呆気なく終わる。長男にも先立たれ、その直後に最愛の女性も亡くして、その10日後に詠んだといわれている。「いのちのはてのうすあかり」の「うすあかり」には安らぎと同時にそこはかとない寂しさが感じ取れる。

この句を詠んで間もなく、万太郎は食物をのどに詰まらせて亡くなった。

〇湯豆腐や いのちのはてのうすあかり 

鍋物も湯豆腐も冬の季語。

さて、今宵は何を食べようかと思案しつつ、ふと思い出した万太郎の句に引き寄せられて、湯豆腐にした。酒は日本酒…。

淡白で単純で、しかも微妙なあの湯豆腐の舌ざわりには、やはり熱燗がよく似合う。

MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。

読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭

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