放送日：2025年9月26日
喫煙者だというと、たいていは蔑みとも憐れみとも嫌悪ともつかない、いずれにしても余り居心地のよくない反応が返ってくる。世界禁煙デーが定められたのは平成が始まった年だから、もう36年も前。刺すような冷たい視線にもそろそろ慣れそうなものだが、どうも、いけない。懐にヤバいものを抱えて、息を潜めながら世間の裏街道をこそこそしているような感覚といったらいいのか。
襲いかかる嫌煙の大合唱にあえなく白旗を掲げた友人たちは「単純な話さ、健康に良くないってわかってるんだから、止めるの当たり前だろ」と涼し気にのたまう。「うん、確かに良くないかもしれないけどねぇ」。生返事をしながら吐き出す煙の行方を目で追いかける。
「健康に良い」って何なんだろう。ある時計メーカーが「会社員の休日の過ごし方」をアンケートしたら、男性も女性も一位が「寝て過ごす」、二位が「ネットサーフィン」だったそうだ。疲れてはいるんだろうけど、少なくとも健康を気遣っている風ではない。「酒は呑んでいるときは呑み足りず、呑み終わったときには必ず呑み過ぎている飲料」という名言を何かの本で読んだが、お酒は、飲み過ぎると健康にダメージを与えるし、酒を飲んでの運転、乱暴狼藉など、その危険度はタバコの比ではない。スイーツ類をのべつ幕なしに頬張ったり、毎日のように脂こってりのラーメンをスープまで飲み干したり、上司の顔色を気にしながら、疲れた身体で休日出勤するのも、命を縮める所作だろうに。
地球全体を壊滅させるに十分な核戦力をボタン一つで操りながらディールに励む大統領が登場し、みんな揃ってフロンガスや二酸化炭素を吐き出しながらオゾン層を破壊し、地球の体温を狂わせるのも決して健康的な振る舞いとはいえない。東京湾で釣れたアジの八割からマイクロプラスチックが出てきたと聞かされると、刺し身に箸が伸びなくなる。言ってみれば、どれもこれも、「ゆっくりとした自殺行為」。それを日々、繰り返すことが、ボクたち人間の逃れられない業なのだろうか。
ダモクレスは、紀元前のイタリア・シチリア島の人だ。このダモクレスは、ある日、地位、富、権力を持っている王様を「この世で一番幸福な人間」とたたえるのだが、それを聞いた王は、彼を豪華ディナーに招待する。ダモクレスがふと上を見ると、頭の上には、細い毛で結ばれた鋭い剣が天井から吊されていた。半世紀前、ケネディ大統領が国連演説でこの話を引用している。「地球のすべての住人は、いずれこの星が居住に適さなくなってしまう可能性に思いをはせるべきだろう。あらゆる人が、核兵器というダモクレスの剣の下で暮らしている。か細い糸でつるされたその剣は、事故か誤算か狂気により、いつ切れても不思議はないのだ」と。
人類ほど自分を傷つけたがる動物はいない。まるで「いま、確かに生きている証」を確認するかのように…。それをもって喫煙の大義名分にするするつもりは全く無いけれど、一つだけ付け足すと、「心身が病んでいるときの煙草」ほどまずいものはない。もちろん、周りの人たちに迷惑をかけないようにしながらだが、おいしく煙草を味わうためにも元気でいたいと思う。
朝夕、すっかり秋の風になってきた。
MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間（今昔）など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭（いおりけい）が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。
読み手：美坂 理恵／エッセイ：伊織 圭
