MBCラジオ

「#57 荷風先生」風の歳時記

この夏、東京に行ったついでに友人と二人で浅草に足を延ばした。じっとしていても汗ばむほどの暑さの中、雷門のあたりは欧米、中東、アジアからの外国人観光客の洪水。日本人は1割もいないんじゃないかと思うほどだった。

さまざまな民族の言葉が飛び交う中をかいくぐるように老舗の蕎麦屋「尾張屋」を目指す。浅草寺からだと歩いて5分ほどだろうか。商店街の角地に少し遠慮がちにたたずんでいる。明治維新の直前、1860年の創業というから、もう165年間、蕎麦一筋に商いを営んできた。暖簾をくぐり、「天せいろ」を注文する。ほっと一息ついて、目の前を見ると、壁に貼られた写真の中で、ひとりの男が蕎麦をすすっている。丸眼鏡をかけ、視線を蕎麦椀の中に落としたまま、無心でひたすら食べている。年の頃、60歳代だろうか。ありし日の作家・永井荷風だ。

この尾張屋、何世代にもわたって地元・浅草と縁のある馴染み客や歌舞伎役者、落語家、踊り子、俳優・芸人が通い続けた店なのだが、よくある有名人の色紙なるものは一切貼り出していない。お品書きに並んで、ただ、永井荷風の写真が二枚ほど貼られているだけだ。「つまんない連中の色紙をベタベタ飾ってないのはさすがだね」とつぶやきながら、友人はせいろ蕎麦を喉に流し込んでいる。

この蕎麦屋を目指したのは、永井荷風の行きつけの店であったことを知ったからだ。ここ10年ほど、ボクの一番の愛読書といっていいほど何度も読んでいる永井荷風の「断腸亭日乗」。断腸亭とは荷風の自宅のことで、「日乗」は日記。今から108年前、大正6年の9月から、亡くなる前の日の昭和34年4月29日まで、間に太平洋戦争をはさんだ激動の時代の世相に折々の季節感をはさみ込みながら記し続けた。その日の天候、来客、東京下町の風景の変化、毎日の食事、友人たちとのやり取り、浅草を中心とした風俗、世相、噂などを記し、時に自筆のスケッチも描かれている。

太平洋戦争のさなか、荷風は書いている。「こんにちの軍人政府のなすところは秦の始皇帝の政治に似ている。国内の文学芸術の撲滅をなしたる後は、必ず劇場閉鎖を断行し・・・私有財産の取り上げをなさでは止まざるべし。かくして日本の国家は滅亡するなるべし」。また、ある時は「近年軍人政府のなすところを見るに、事の大小に関せず、愚劣野卑にして国家的品位を保つものほとんどなし」「日本人の口にする愛国は、田舎者のお国自慢に異ならず」と。

下町の人情、色恋を書き続けた荷風が、治安維持法のもと、憲兵の目が光る中で、あえて激しい怒りを筆に託したことに驚くばかりだ。その荷風の自宅、断腸亭も昭和20年3月10日の東京大空襲で焼け落ち、膨大な書物が灰となった。

尾張屋の壁、ちょっと眉をひそめて難しい顔をしながら蕎麦をすする永井荷風の姿を眺めながら、友人と黙々と蕎麦をいただく。蕎麦つゆは荷風の時代から、枕崎のカツオを使っているそうだ。味にうるさい荷風の気に入ったのかもしれない。

間もなく80年目の敗戦記念日がやってくる。

MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。

読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭

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