
放送日:2025年5月2日
忘れもしない、あれは、大学一年生の、ちょうど今ごろの季節だった。いまも、あるかどうかは知らないが、アーケードの端っこのその店のたたずまいは、はっきり覚えている。
相棒は、ズーズー弁をしゃべる島根県の片田舎出身の同級生だった。蒸し暑い昼下がり、「蕎麦」の看板に、「おい、たまには蕎麦も悪くないな」と連れ立って入った。お昼時を過ぎていたせいか、客はボクたちだけ。
「何にする?」「ザルでいいんじゃないの」…とテーブルの傍で注文を待っていた同世代の女性の店員に告げる。「じゃ、ザルを二つね」
待つこと10分ほど。蕎麦が運ばれてきた。友人はごく自然な振る舞いで薬味のネギとワサビをザルの上の蕎麦にばら撒いている。最初は気づかなかったけれど、蕎麦の上にばらまかれた小ネギを見ながら「ン?」と一瞬、戸惑った。不思議な食べ方だなぁ、と話しかけようとした次の瞬間、事件は起きた。椀のつけ汁を、いきなり、円を描くようにザルの上にぶちまけたのだ。
ワァ!と声を上げたボクたちに気付いて、あの女性店員が飛んできた。つけ汁がザルを抜け、お盆から溢れ出し、テーブルの上に広がっていた。彼女は一瞬、呆れたようにボクたちの顔を黙って見据えた。いや、「見据えた」ように見えた。
相棒に尋ねた。「おまえ、ザル蕎麦食ったことないのか」。彼は、恥ずかしそうに頷いた。実は、ボクも初めてのザル蕎麦だった。そのことは彼には黙っていた。ボクは、ただ、食べ方をテレビか何かで見て、うすうす知っていただけなのだ。
正直に言うと、蕎麦を食べた記憶のスタートは、この時から始まる。食堂、レストランのなかった山間部の村で育ったボクも、子供のころに蕎麦を食べた経験はない。たまに母に連れられて街に出ると、お昼は「ウドン」か「ラーメン」。たまに、母がおめかしをして、機嫌のいい日には、デパートの食堂へ。チキンライスの上に小さな日の丸の旗が立っている「お子様ランチ」というのが定番だった。そもそも、その街に蕎麦屋があったのかどうかも記憶にない。友人も、山奥の田舎育ち。とはいえ、島根県は出雲ソバの本場なのに、と不思議だった。
一昨年のソバの生産量を調べてみた。一位は圧倒的に北海道で全国の4割を占める。鹿児島は9番目だ。九州ではトップだが、全国有数の蕎麦の生産県だと思っていただけに意外だった。ちなみに友人の故郷・島根県は18位、生産量は鹿児島の4分の1だ。
ソバ文化圏とウドン文化圏があるといわれる。どういう物差しでソバとウドンの文化圏を分けるのか。いろいろな説があるらしいのだが、面白い説に、茹で上がり時間の違いがある。麺の太さによっても違うけれど、茹で上げる時に、ウドンはソバより3倍程度時間がかかるらしい。ソバ文化圏には気が短い人が多いという説だ。
そんなことはさておき、いまや、無類の蕎麦好きのボクだが、ザル蕎麦だけは、いまも箸をつけるたびに、あの相棒の消え入りそうな表情を思い出してしまう。精一杯背伸びして、大人を気取りたかった、青春期の甘酸っぱい味とでもいったらいいのか。 卒業してから、彼とは音信が途絶えたままだ。
MBCラジオ『風の歳時記』
テーマは四季折々の花や樹、天候、世相、人情、街、時間(今昔)など森羅万象。
鹿児島在住のエッセイスト伊織圭(いおりけい)が独自の目線で描いたストーリーを、MBCアナウンサー美坂理恵の朗読でご紹介します。
金曜朝のちょっと落ち着く時間、ラジオから流れてくるエッセイを聴いて、あなたも癒されてみませんか。
読み手:美坂 理恵/エッセイ:伊織 圭









