薩摩が誇る若き19名の藩士!!

ポニー1号から薗田です☺
今日はいちき串木野市羽島にある『薩摩藩英国留学生記念館』に行ってきました⛴
こちらの建物、明治維新だけでなく、JR鹿児島中央駅東口広場に立つ、薩摩藩士の大きなモニュメント『若き薩摩の群像』にも関係しているんです😳
お話を伺ったのは、薩摩藩英国留学生記念館総合プロデューサーの砂田光紀さんです♪

まず改めて、こちらは明治維新とどう関わりがあって、またどういった建物なのかお伺いしました!
そもそも、なぜ、若き19名の薩摩藩士達は留学することになったのか?
始まりは、1862年9月に起きた「生麦事件」です。乗馬で日本見物中の英国人一行が日本の風習や言葉を知らず、京都へ向かう島津久光の列を乱してしまい、薩摩藩士をが無礼討ちとして英国人らに斬りかかり1人が死亡してしまった事件です。これが発端となり、後に薩英戦争が起こります。その後、和解が成立するのですが、交渉中に薩英の間に親密な関係が築かれていきます。
その頃、五代友厚は薩英戦争等を通して世界の情勢や文化を知り、危機感を感じていました。薩摩藩に対して今後の国づくりに対する上申書(これからは西洋技術を習得しないと世界から遅れをとり、日本は発展できない・・・というような内容や、外国へ留学生を派遣すること、器機の購入による藩産業の近代化、その経費に関することが具体的に書かれていたそうです・・・五代さん、すごいです・・・😳)を提出します。
その後、19名の青年藩士達の英国留学が決まり、そしていちき串木野市羽島の地から旅立っていくのです🛳
3名の使節、15名の留学生、1名の通訳の計19名がイギリスへ向かったそうですが、鹿児島中央駅前のモニュメント『若き薩摩の群像』にも「若き」と書いてあるように、留学したのは10代~30代!!最年少の長澤鼎はなんと13歳😳‼
選考基準は家老職につく者や防衛関係の仕事をしている者、そして意外なのが「攘夷(外国人を日本国内に入れることに反対している)の者」も3名選ばれていたのです・・・五代友厚がこの選考基準を考えたそうですが、五代さん、やっぱり斬新ですね😳
そして、実は19名のうち2名は薩摩藩の出身ではなかったとのこと【長崎出身の堀孝之と土佐出身の大石団蔵】・・・その為、『若き薩摩の群像』の銅像にはこの2名をのぞいた17体しかいないのです・・・しかし、この2人がいなければ英国留学は成り立たなかったと言っていい程の、重要人物です!!なので、この記念館の1階には、2人の功績を称える為に、2人の大きな写真が展示してあるそうです☺
この当時は日本人が外国へ行くことは禁止されていた為、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」ということにして、一人ひとり、本名を隠して別の名で留学したそうです・・・江戸幕府に背いてまで、また、危険を犯してまで外国へ行った留学生達は何を学び、そして日本へ伝えたのか?お伺いしました。
日本は世界の中でも孤立していて、文化や産業等も遅れており、世界的標準まで追いつかなければなりませんでしたが、それをこの留学生達が海外で学んで取り込んでいったそうです!またこれは当時はすでに亡くなっていた島津斉彬の想いでもあったので、やっとその願いが叶った瞬間でもあったのです!!斉彬もこの薩摩の姿を自分の目で見たかったでしょうね・・・
19名の功績は、ぜひここへ来て見て頂きたいです!直接、目で見て欲しいものしかありません!!日本の歴史を変えた沢山の偉人ばかりです!鹿児島に生まれたことを誇りに思える記念館なので、ぜひ行ってみて下さい😁


そして何より、この建物、海沿いにあってとっても景色がいいのです☺中にはとっても素敵なカフェもあります☕
明治維新150年を機に、ぜひぜひ足を運んでみて下さい🚗

(※薩摩藩英国留学生記念館内は写真撮影は禁止されており、今回は特別に許可を頂き、撮影をしています📷)

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