明治維新の原動力となった薩摩の教育、最初のシリーズは、島津 日新斉、即ち、薩摩の戦国武将 島津 忠良が人生訓を説いた“いろは歌”です。きょうから“いろは歌”を創った「島津 日新斉」の家系をご紹介します。
島津氏本家、第三代当主に「久経」という人物がいました。その久経には、長男・忠宗、次男・久長という2人の子どもがいました。
長男・忠宗は、島津本家を継ぎ、守護職(地方の大名・お殿様)となります。
次男・久長は、弘安四年(1281年)4月16日。薩摩国「伊作の荘」「日置の荘」、並びに信濃の国(現在の長野県)の「神代郷」というエリアの地頭職に任ぜられます。これは、鹿児島と長野の一部地方のお殿様になったということです。
一方、同じ時代、つまり鎌倉時代中期に、当時の元(現在の中国)の遣いが日本を訪れ貿易することを要求します。
日本がこれを無視すると、翌々年の弘安2年、再び元の使節がやって来ます。しかし幕府はこれを斬ってしまい、日本と元との間で政情不安となります。
そんな中で、次男・久長は、伊作(現在の日置市吹上町エリア)に移ります。そして、亀丸城を築き、伊作家を名乗り、また大隅の守と称します。
幕府は元の遣いを殺害したことで不安を覚え、鎌倉幕府執権・北条 時宗は、西日本の各地の守護職に異国降伏の祈願、つまり「朝鮮が来たら反攻しなさい」と命じるほど元との関わりが怪しくなるのです。
これに対し伊作家は、どう対処したのでしょうか…
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