慶応4年8月9日 久保田藩へ盛岡藩が侵攻
きょうは慶応4(1868)年8月9日です。奥羽越列藩同盟を最初に離脱し新政府側についた秋田・久保田藩に対し盛岡藩兵が侵攻をはじめました。
いち早く新政府側についた久保田藩には、新政府軍の奥羽鎮撫総督の指揮本部がおかれています。これに対し、久保田藩の東にある盛岡藩は、家老・楢山佐渡を指揮官とし、二千の大軍で久保田領内の十二所などを攻撃しはじめました。
久保田藩は、北の津軽藩が新政府側についたため、背後の心配なしとみて、主力のほとんどを庄内討伐に当てていました。
盛岡の攻撃に対し、久保田藩の守備隊は後退し、新政府軍側が劣勢になっているということです。
新政府奥羽軍の大山綱良は、この動きを把握できておらず、今後、東北制圧の戦略の見直しを迫られそうです。