慶応4年8月3日 二本松陥落 少年も戦死
奥羽越列藩同盟のひとつで、会津の西に位置する二本松藩が新政府軍との戦いに敗れ、降伏していたことがわかりました。
奥羽越列藩同盟の二本松藩は、新政府が朝敵とする会津の側面にあります。薩摩藩の伊地知正治と土佐藩の板垣退助が指揮する新政府軍は、先月29日、二本松城を攻めました。
二本松城では、主力が不在で、城を守ったのは主に老兵と農民兵、少年兵でした。
城下の大壇口では12歳から17歳の少年隊25人が戦いに参加し、8人の少年が銃弾を受けるなどして戦死しました。
このうち13歳の岡山篤次郎は、腹を銃で撃たれ新政府の野戦病院で手当てを受けていましたが、ひん死の中、土佐藩の小隊長に「無念。自決の銃を下さい」と漏らしたということです。
小隊長は心を動かされ、養子にしたいと話したということですが、篤次郎は間もなく死亡しました。
篤次郎は、出陣前から死を覚悟していて、母親が遺体を探す時に分かるよう、全ての持ち物に名前を書いていたということです。
南奥州を征圧した新政府軍は、二本松城を拠点に会津藩の攻略を進めていくこととなります。