8年前に無人に…愛されたふるさと なぜ消えた

平成が抱える課題のひとつが人口減少です。平成に入って日本の総人口は減少に転じ、特に地方では著しく減少しています。

鹿児島では、昭和30年ごろにおよそ204万人の人口でした。
高度経済成長期に大きく減少し、昭和後期に180万にまで戻りましたが、平成に入る前ぐらいからじわじわと減少が続いています。
そして、人口が減り、維持が難しくなった集落を指す「限界集落」という言葉も生まれました。

今週と来週は、平成に入って姿を消した集落とその背景についてお伝えします。
住民に愛されたふるさとはなぜ消えたのか?きょうは8年前に無人になった薩摩川内市の集落です。


薩摩川内市東郷町の中心部から車でおよそ30分、紫尾山のふもとにかつてその集落はありました。

津田集落の跡地です。8年前から人は住んでいません。今は廃屋となった家々が点在しています。

津田集落では8年前、集落を閉じる際に、出身者らが集まり、お別れ会を開きました。
かつて林業が盛んで、ピーク時の昭和30年代には30数世帯、およそ170人が暮らしていた津田集落。

しかし、その後次第に、人口は減少。平成元年の時点では36人いましたが、8年前の平成22年、最後まで残った70代の夫婦2人が去り、集落の歴史に幕を下ろしました。


集落跡に建てられた記念碑。その設置に関わったのが、津田盛吉さん(69)です。
(津田盛吉さん)「集落がなくなるにあたっていつの間にか集落がなくなったと思われたくなくて当時の出身者を全部寄せて先祖の供養をあげてやろうということで考えて造った記念碑なんです」

この地で生まれた津田さんは、高校を卒業後、東京の林業関連の会社に就職。
昭和58年、34歳で県内に転勤。住んだのは当時の東郷町の中心部でしたが、町内の津田集落とは関わり続けたといいます。
(津田盛吉さん)「林業で栄えた集落ですので活気があってみんなが焼酎も結構飲む元気な人たちがたくさんいました」

この日、津田さんら集落の出身者らが集まり、花見を行いました。
このような会を開いたのは8年前のお別れの会以来だったといいます。

(久保ノキさん)「なんとも言えないです。8年ぶりでした。いつも夜寝れないとき津田集落は何戸あったのかなと寝れないときに数えている36戸数あったみたい。忘れるったって忘れられない」
(久保キサさん)「(小学校時代)夏休みになったら勉強どころじゃなくて(津田集落の)そこの下の川に来て水浴びをするのが唯一の楽しみ思いだします」


かつて住民たちが愛した集落はなぜ消えなければならなかったのか?

津田さんがその要因の一つに挙げたのが、「働き方の変化」です。

「昔は山の中だから我々の先輩、中学校終わって(卒業して)すぐ山仕事雇用の場はあった」

しかし、時代とともに林業の従事者が減り、住民たちは次第に雇用があって交通の便もよいまちの中心部へと移っていきました。
さらに人の流出を加速させたのが…
人が減ればイノシシやシカなどが増えて田んぼや畑を荒らし、さらに集落で暮らしにくくなるという悪循環もあったといいます。

「米をつくると田んぼがやられるし、山あいの農家は基本自給自足、ダイコンも野菜も全部自分たちがつくってまかなうそれをシカが食べてします。自分たちに食料さえもつくれなくなったのが大きな原因の一つ」


津田さんはこの日、集落跡に残る共同墓地を訪れました。
先祖の墓はすでに他の場所に移していますが、今でも年に1回は訪れるといいます。

「集落があって先祖のお墓があって集落を形成している。集落が消滅すると拠り所がなると自然と近所、隣に住んでいた人たちに交流がなくなる。集落が消滅して初めて寂しさもあるし、自分の生まれた在所人が住めなくなった非常にショック」

ふるさとという拠り所を失った重みを今、改めて感じているという津田さん。
平成は、人口減少の厳しさを味わった時代だと振り返ります。

「だんだん人口減、集落が消滅してい時代になりますから、私にとっての平成とはあまりいい思い出で実はない。人口減、住む人がいなくなるわけですね。ですから集落で出来ること、あるいは行政に依存してお願いして、何とか集落を残す方法を考えていかないといけない」


国の調査では消滅の可能性のある県内の集落は平成22年度は201、その5年後は212とやや増えました。
今後、さらに増えると見られていて、平成の次の時代もさけられない課題となりそうです。