60年前に閉山した枕崎の“鹿籠金山”遺構にカメラが専門家と潜入
鹿児島県内にもかつて100か所以上あった金や銀を採掘する鉱山。海外産の輸入や公害の問題で数は減り、今では4か所だけとなっています。
かつて金の採掘で栄えた鉱山が枕崎市にあります。閉鎖から60年経った今を取材しました。
(志賀名誉教授)「ここが出発地点の古道入り口です」
枕崎市金山町にある鹿籠金山跡。かつては県下有数の金の採掘量を誇ったとされています。この日は、金山の跡地を地元の住民とめぐろうと、金などの鉱物を研究する鹿児島大学の志賀美英名誉教授が見学会を開き、およそ10人が参加しました。
(志賀名誉教授)「坑口がみえます。もういっぱいある、この上にもある」
山のいたるところに金を掘っていた坑道の入り口=坑口が見られる鹿籠金山跡。今から340年ほど前、江戸時代初期に、地元の郷士・有川夢宅が発見したとされてます。
その後、薩摩藩・島津家の金山として財をなし、最盛期の1700年ごろには、300人ほどが金の採掘にあたり、金山のまわりで家族とともに暮らしていたといわれています。
♪金がこぼれる、たもとから~
当時、労働者たちが口ずさんでいた歌です。金鉱石を採掘する労働者たちの様子を歌った「鹿籠金山せっと節」。採掘の機械がなかった当時、すべて手作業で坑道を切り開いていました。暗い坑内で仲間同士が励ましあうために歌われたといわれています。
(志賀名誉教授)「これも坑口そのもの。タガネ(岩盤削る工具)の跡が見えた!」「この方向に筋が入っている。昔の人はタガネで掘っていったわけです。その証拠300年前の掘ったあとと」
鹿籠金山は明治時代に入り、全国の鉱山の開発も手がけていた鹿児島市出身の実業家・五代友厚の所有に。しかし、栄えていた鉱山も今は…。
(記者)「こちらが金の鉱脈の入り口。この中で金が採掘されていたといいますが、想像がつきにくいです」
当時、労働者たちが鉱山に入るために使っていた道も草木に覆われ、歩くのもやっとです。ピーク時、300人以上が働いていたころの面影はありません。
県内で今も採掘が続いているのは、伊佐市の菱刈鉱山、枕崎市の春日鉱山と岩戸鉱山、南九州市の赤石鉱山の4か所。
かつて、日本各地に金のとれる鉱山は数多く存在し、県内だけでもおよそ120か所あったといいます。しかし、公害問題や外国産の鉱物資源の輸入などでほとんどが閉山。鹿籠金山も1965年・昭和40年ごろ、およそ280年の歴史に幕を下ろしました。
(志賀名誉教授)「そのまま放置すると、土砂崩れで埋まったり木で覆われり、忘れさられてしまう」
歩いていると、いたるところに鉱石を含んだキラキラと光る石を見つけることができます。
(記者)「この石は?」
(志賀名誉教授)「石英脈(鉱脈)」
(記者)「金は入っている?」
(志賀名誉教授)「多分入っている。肉眼では見えない」
かつての面影を失った金山跡。古道を進んでいくと、鉱山を中心とした生活の跡が少しずつ見えてきました。
(志賀名誉教授)「これは電線。昭和33年まだ新しい、昭和になってもまだ採掘や精錬をしていた」
閉山前に使われていた古びた木製の電柱。さらに…
(志賀名誉教授)「古道のわきに屋敷がある、その境に水路・排水溝だと思う」
石でつくられた橋もありました。橋を渡った先にあったのは、草木に覆われた炭窯跡。鉱石から金を溶かして取り出すために、木炭をつくっていました。
(志賀名誉教授)「真っ赤。これは元の岩石はわからない。焼けちゃっているから」
炭窯跡の周りには、赤い焼けた石も落ちていました。鹿籠金山のかつての姿を、知らない住民も多くいます。
(地元住民)「(普段は)ほとんど入らない。中学生くらいまで入って(遊んで)いた。うれしいような、さびれているのがさみしいような」
(地元住民)「こんなにも大切なものが眠っているとは夢にも思わなかった。自分たちでなんとか守っていければいいなと思う」
志賀さんは、忘れ去られつつあるかつて栄えた鹿籠金山の姿をこれからも地元の住民に伝えてきたいと話します。
(志賀名誉教授)「日本は鉱物資源が乏しいと思っていると思う。それは大間違い。いつまでも保存して、地元の人の自信と誇りにつなげられたら」