慶応4年5月15日 上野寛永寺 総攻撃
きょうは慶応4(1868)年5月15日です。上野の寛永寺を拠点にする旧幕府勢力の彰義隊に対し、新政府軍は上野を包囲し、総攻撃をかけました。
寛永寺には、旧幕臣などからなる武装勢力・彰義隊、およそ1000人が立てこもっていました。
これに対し、新政府軍務官判事の大村益次郎は、午前8時ごろ2000の兵で3方向から攻撃を開始。
正面の黒門口には西郷隆盛が指揮する薩摩藩を主力に、鳥取藩、熊本藩。背面に当たる団子坂方面は長州藩、大村藩など。不忍池を挟んだ側面には肥前佐賀藩のアームストロング砲など強力な砲列が敷かれました。大村は前線に出ず、江戸城で作戦を指揮しました。
午前中は一進一退の攻防でしたが、午後に入り大村はアームストロング砲での攻撃を命令。強力な砲撃の援護を受け、寛永寺に突入した新政府軍は、夕方までに上野を征圧しました。
砲弾や銃弾による激戦で寛永寺の金属製の門には、穴があきました。大村は、彰義隊が江戸中心部に逃げ込むのを防ぐためあえて北東に兵を置いていませんでしたが、敗残兵は、計画通り、散り散りに北東へ逃げ、多くは捕らえられたということです。彰義隊側の戦死者はおよそ100人、新政府軍の死者はおよそ60人でした。