慶応4年2月8日 松平容保ら江戸城登城禁止に
きょうは慶応4(1868)年2月8日です。徳川慶喜は新政府に対する恭順の姿勢を強調するため、主戦派の家臣を多く抱える会津の松平容保らを江戸城登城禁止としました。
禁裏御守衛総督だった一橋家出身の徳川慶喜、京都守護職だった会津の松平容保、京都所司代だった桑名の松平定敬の3人は、「一会桑政権」と呼ばれ、京都の政治を主導していました。
徳川家存続のため功績のあった2人を遠ざけ、江戸城への登城を禁止した慶喜の姿勢は、旧幕府内で批判を呼ぶことが予想されます。
一方、薩摩藩の国許では、「鳥羽・伏見の戦いなど、旧幕府との戦いで功績のあった者の遺族に朝廷から弔慰金が与えられる」と藩内に通達されました。
これを受けて島津久光は朝廷に御礼を述べた上で、家老に、戦死者の霊をまつる神社の建設に寄付をするよう命じました。