慶応4年9月3日 小松帯刀の弟 戦死
きょうは慶応4(1868)年9月3日です。新政府軍の会津攻めが続く中、小松帯刀の弟、山田司が会津で戦死しました。
帯刀と司は、喜入肝付家の三男、四男として生まれ、それぞれ小松家、山田家へ養子に入っていました。
山田司は、薩摩の中村半次郎らとともに、会津の本拠・鶴ヶ城を包囲する新政府軍に合流するため、日光方面から北上していました。しかし、街道筋には会津藩兵が待ち構えていて、鶴ヶ城から南におよそ10キロの関山付近できのうからきょうにかけて激しい戦闘となりました。
一進一退の攻防の中、薩摩藩兵の強襲で、会津藩側は40人が戦死し撤退。いっぽうの新政府軍も数十人の死傷者が出て、山田も戦死したということです。詳しい状況は分かっていません。
会津南部の大内村の住民によりますと、撤退する会津軍で殿をつとめた武士が「馬に乗った指揮官を斬った」と話していて、これが山田司の最期であった可能性もあります。